「青、ちょっといらっしゃい」
橙が自分の膝でくつろぎ始めてから一時間程経った頃、彼の耳に姉の声が入って来る。
「こっちよ、こっち」
首を動かす事で声の発生源を辿ろうとする。すると右耳の方から声が聞こえていることが判明した。
「わかりました。少し待っていてください」
そう姉に言葉を返してから、橙の頭を撫でる手を止める。先程から自分の膝辺りからすぅすぅという規則正しい息づかいが聞こえる。そして時折彼女の二本の尻尾が手に当たってくすぐったい。どうやら寝てしまっている様だ。
折角気持ちよく寝ているのに起こすのは気が引けるが、呼ばれてしまった以上起こすしかあるまい。
「橙…橙…起きてください」
「ん、んぅ…?青しゃま…にゃんですかぁ…?」
彼女の体を軽く揺すると、橙は眠たそうな声で青に問いかける。
「姉様に呼ばれてしまいました。すみませんが起きて貰えませんか?」
「わかりました…ふぁああ…」
橙は欠伸をして彼の膝の上で軽く伸びをした後、彼の膝の上から降りる。それを感触で確認した後、青は痺れている足を使って立ち上がる。
「大丈夫かしら?さぁ、私の手を取って…」
紫は青の手に己の手を重ね、ゆっくりと彼の手を引いて行く。彼女が向かった先は、八雲の屋敷にある一室だ。扉を閉めると先程まで聞こえていた皿を洗う水の音が消え、まるでこの世界に二人しかいない様な感覚に陥る。
「いきなり呼び出しちゃって、橙には悪い事しちゃったわね」
青を座布団に座らせた紫は、自分も同じ様に腰を下ろしてからそう言葉を零す。
「あの子は物わかりが良いので大丈夫でしょう。それで、一体何の御用でしょうか」
青の言葉に紫は少しの間黙った後、ゆっくりと口を開く。
「・・・青、貴方は今年でいくつかしら」
「・・・?そうですね…千五百は超えているでしょうが…詳しくは憶えておりません」
突然の質問に青の頭には疑問符が浮かぶが、姉の質問に大人しく答える。
「そう…ずいぶん大きくなったわね…」
紫は感慨深そうに呟いた後、再び口を開く。
「青、貴方には今日から外出を許可します。この世界を、私達の幻想郷を見て来なさい」
「・・・え?」
紫の言葉に青は呆けた様な表情をする。紫としては、この反応は少しだけ予想外だった。
「あら、もう少し驚いてくれると思っていたのだけれど、嬉しく無いのかしら?」
「いえ…突然の事で少々困惑してしまって…でも、良いんですか?」
今まで随分長い事生きてきたが、この不自由な目が故に一度も外出を許可されたことは無かった。自分もそれは正しい判断だと思っていたし、不満も無かった。しかし、外に出たいという思いが無かったわけでは無い。それ故に姉の口から呆気なく出されたその一言は、彼にとって完全に予想外の発言だった。
「えぇ、と言っても、流石に一人で行かせることは出来ないわ。だから外出する際は藍が付きそうことになるけれど」
「はい、それは構いません。自分としては、外に出る事が出来るだけで嬉しいので」
「そう…ごめんなさいね。この決断をするまでにこれ程時間が経ってしまって」
「いえ、それじゃあ、早速明日出掛けても良いですか?」
「えぇ、構わないわよ。藍には言っておくわ」
「ありがとうございます」
彼を呼んだ理由はそれだけだったのか、紫は立ち上がって青の下に向かい、彼の手を取る。
青はそのままゆっくりと立ち上がり部屋を後にするのだった。年甲斐も無くわくわくしてしまっているなぁ…と思いながら。
「・・・」
夜は、嫌いだ。
しかしそれは暗闇が理由では無い。目が機能していない彼にとっては、常に暗闇が故に昼だろうが夜だろうが変わらないのだ。
ならば何故、夜が嫌いなのかと言うと…
「・・・」
これだ。この静寂こそが、青が何よりも嫌う物。目の見えない青にとって、聴覚は外の情報を得るのに最も重要な器官と言っても良い。夜の静寂は、そんな耳に一切の刺激が無い。
まるでこの世界が自分一人だけになってしまったかのような、どうしようもない孤独感が押し寄せて来るのだ。
こうして横になっているだけで、涙が零れてしまいそうになる。千五百年が経っても、自分は子供のままだ。
「姉様…!」
彼の目に溜まっていた涙が、目尻から流れていく。しかしそれは布団に流れ着くことは無く、誰かによって拭われる。
「少し遅くなってしまったわね。ごめんなさい」
「姉様…!」
再び彼が己の姉を呼んだ時、それは先程とは意味が違っていた。青はその声が聞こえた方に手を伸ばし、彼女の感触を探っていく。
すると青の手が暖かい物に包まれる。八雲紫が、彼の手を握った証拠だった。
彼女の手によってその存在を特定した青は、体を動かして姉に抱き着く。
「姉様…姉様…!」
「やっぱり何年経っても、貴女は子供のままね…」
「いいです。こんなに孤独な思いをしないといけないのなら、子供のままでいいです」
そう言って彼女の胸に頭をぐりぐりと擦りつける青。暫くそうしていると紫がいる方とは反対側からも布が擦れる音がし、青は驚いてそちらに振り向く。
「あ、申し訳ありません青様。驚かせてしまった様ですね」
「藍…」
何故藍がここに…そのことを考えるよりも速く、青の体の上に重みが加わる。
「橙もいますよ…!」
元気よく、しかし気を使って小さい声で喋る橙。
「何故二人がここに…」
先程までの様子を従者である二人に見られたことに青は漸く気が付き、その顔を僅かに赤らめる。
「今日は皆で寝ようかと思ったのよ」
左耳から紫の声が聞こえ、相当近くにいるのだろう、藍の息が彼の右耳をくすぐる。さらに胸からお腹にかけては橙の重みと、暖かさが伝わって来る。
「姉様と橙はともかく、藍と一緒に寝るのは随分久しぶりですね…」
「そうですね。最後に一緒に寝たのは…もう五百年も前になるのでしょうか…」
彼女がこれ程までに成長するとは…青は思わず藍の頭に触れ、彼女を優しく撫でる。突然のことに藍は少しだけ声を漏らすが、すぐに大人しくなりそれを受け入れる。
「青様、橙も撫でて欲しいです…」
「えぇ、わかりましたよ」
彼女の要望に応え、もう片方の手で頭を撫でる。するとかなりリラックスしたのか、橙が腰に手を回して来た。脇腹に彼女の腕が当たってくすぐったい。
「二人共青とそんなに密着して…ずるいわ。青は私の弟なのよ?」
少し拗ねた声音で紫がそう呟く。その直後、彼の頭が彼女の腕によって包まれる。
何時ものように自分を抱き締めてくれる姉の暖かさ。それを感じて青の意識は段々と微睡んでいく。
「やっぱり…姉様に包まれていると…安心…します」
「そう、それは良かったわ。その安心感に身を委ねて、ゆっくりお休みなさい…」
そう言って紫は、彼の額にそっと口づけをする。彼はゆっくりと、幸せを感じたまま、完全に暗闇へと落ちていった。