遠くから、雀の鳴き声が聞こえる。もう朝になったのだろうか。
「ん…」
青はゆっくりと両腕を動かし、周囲の状況を確認する。すると左手に何かが当たった。その手を少し上に持っていくと、そこに一定のリズムで風が当たる。どうやら己の姉はまだ、自分の隣にいる様だ。
しかしそれとは対照的に右手には何かが当たる様な感触はしない。どうやら藍は既に起きている様だ。普段より少しだけ早く起きてしまった様だ。今日が楽しみだったからだろうか。楽しみのあまり早く起きてしまうなんて、やはり自分はまだまだ子供だなと実感する。
二度寝してもよかったが、折角だし早起きでもしよう。そう思い彼は上半身だけ体を起こす。その後自分の丹田の辺りにいる橙を起こさない様にゆっくりと移動させ、立ち上がる。
そのまま彼は壁に手をついて廊下を歩いて行く。この屋敷の構造は既に頭の中に入っているから、一人でも歩こうと思えば歩くことが出来る。
「やはり朝はいいですね。涼しくて清々しい」
朝の空気を肺一杯に吸い込み、そして吐き出す。そんな事を何度か繰り返していると、食欲をそそるいい香りが向こう――台所の方から漂ってくる。
ゆっくり、ゆっくりと手をつきながらそちらへ向かう。誰がいるかは、既に予想がついていた。
「おはようございます、藍。いつも早いですね」
「え…青様?大丈夫ですか!?」
まさかいきなり現れたのが青だとは思っていなかった藍は、大慌てで彼の方に向かい、介抱をする。
「大丈夫ですよ。家の構造は殆ど憶えていますから。一人でも歩くことは出来ます」
「だとしてももしもという事があります!」
怒らせてしまっただろうか。青を座らせた彼女は小さく息をつくと、再び調理に戻る。
「もう少しで朝食が出来ますので、そこで大人しくしていてください」
「・・・そう言われると、動きたくなってしまいますね」
「一体いくつですか貴方は…!」
「冗談ですよ、冗談」
青は苦笑交じりに藍を宥める。
「今日は初めて外に出られるので、少しだけ舞い上がっているのかもしれません」
「あぁ、そうでしたね。それと、本日は私が同行することになっておりますので」
「そうなんですか。私に付き合わせてしまって申し訳ないです」
「いえ、それが式神の務めですから」
藍は青と会話をしながら動かしていた手を止め、カンカンと鍋の淵でお玉を叩く。
「よし、出来上がりました。紫様と橙を起こしてきますので、少々お待ちください」
青に一言断りを入れて、彼女はスタスタと廊下を歩いて行く。
これ以上彼女をヒヤヒヤさせると叱られそうだと思い、青は大人しく彼女の帰りを待つことにした。
「それでは紫様、行って参ります」
「えぇ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
「藍しゃま、青様、行ってらっしゃいです!」
「はい。ありがとうございます橙」
時間は少々経過し、食事を終えた青は藍と共に初めて外へと踏み出そうとしていた。彼の隣には藍が付き添っており、橙と紫は彼らを見送る。
藍に手を引かれて、青は玄関の敷居を跨いで外へと歩き出す。二人は彼らの姿が見えなくなるまで見送った後、扉を閉めて家へと戻る。
「橙はこれからどうするの?」
「橙はこれから猫たちの所に遊びに行きます!」
「そう、気を付けて行ってきなさい。夕飯までには帰るのよ?」
紫の言葉に橙は元気よく返事をした後、庭の方へと走っていく。それを見送った紫はスキマを開き、その中へと入る。
「邪魔するわよ、幽々子」
そう言ってスキマを超えた先には、縁側に座る一人の女性がいた。
「もうお邪魔しているじゃないの、紫」
そう言って笑みを浮かべる女性。彼女は西行寺幽々子。この屋敷、白玉楼の主をしている亡霊である。
「あら、貴女だけ?藍ちゃんはいないの?」
「あの子は今出かけているわ」
「じゃあ青ちゃんは?いつも一緒に来てくれるじゃない。まさか私嫌われちゃったの?」
「違うわよ。青も藍と一緒に出掛けているわ。正確には青に藍が付き添っているのだけれど」
紫が何気なく発した言葉に、幽々子は驚きのあまり動けなくなってしまう。
「・・・幽々子?」
「紫が青ちゃんの外出を許可するなんて…!?一体どういう風の吹き回し!?」
「失礼ね。あの子はもう少し見聞を広めるべきだと思った。それだけよ」
「・・・それ、大丈夫なの?」
その返答をする前に、紫は幽々子のいる縁側へと向かい、彼女の隣に腰かける。
「全然良くないわよぉ~!」
次の瞬間、紫は大声を上げて床の上をゴロゴロと転がり回る。もうそこには先程までの賢者としての、姉としての威厳など欠片も無かった。
「青、大丈夫かしらぁ…悪い妖怪に襲われたりしてないかしら…変な女に誑かされたりしないかしら…!?」
「そんなことは藍ちゃんが絶対に許さないから大丈夫よ」
「でも…でもぉ…心配なのよぉ!」
「そんなに心配ならなんで外に出ていいなんて言ったのよ…」
「だって可哀想だったんだもん!あの子が毎日出掛ける橙と藍を見ながら羨ましそうにしているのよ!?可哀想過ぎるでしょ!」
あいかわらずの過保護っぷりに呆れる幽々子だが、少しだけほっとしていた。青を外に出すなど、よっぽど考えられないことだ。過保護ではない紫など、それは最早偽者かと疑うべきである。
「なら見守っていればいいじゃない。貴女の能力ならそれが可能でしょう?」
彼女の能力《境界を操る程度の能力》を持ってすれば青の行動を逐一監視して危険を排除することくらい容易いだろう。そう思っての提案だった。
「でも、それじゃあ何の意味も…むぐぐ…」
頭を抱え本気で苦悩する紫、これ程悩んでいるのは、長い付き合いである幽々子も見た事が無かった。
「やっぱりやめておくわ。私が守り過ぎていたら、あの子の為にならないもの」
「・・・紫にも、そんな発想が出来たのね」
「さっきから失礼ね」
「まぁまぁ、あの子を信じたのなら私達はここで大人しく待ちましょう。妖夢にお茶を持ってきて貰うわね」
幽々子はそう言って、一度縁側を後にする。紫は一度深呼吸をした後縁側に座り直し、幽々子の帰りを待つのだった。