「何ですか、これ?」
突如として自分の手の上に置かれたズッシリとした何かの感触に、青は思わず怪訝な表情を浮かべる。
今彼がいる場所は永遠亭。普段通りのんびりと過ごしていた青であったが、突然屋敷を訪問して来た永琳の手によって半ば強制的に永遠亭へと連行されたのだ。
青としてはせめて藍に一言断ってから外出するべきだと思ったのだがその暇すら無く、気が付いた時にはお姫様抱っこ状態で外へと運び出されていた。普段は冷静で人の話を聞く彼女が問答無用と言った様子で自分を連れて行くのだ、余程自分に見せたい物があるらしい。
青自身も先程誰か家の者がいないと帰る際に困ると抗議した時に彼女の口から出て来た『今日は必要無い』という言葉が非常に気になっていたのだ。拘束されているこの状態で何かが出来るとは思っていないし、大人しく連れ去られる事にしよう。そう考え永遠亭へと拉致され部屋に通されるなり渡されたのが、今自分が手にしているよくわからない何かだ。一応落とさない様にと注意はしているものの、やはり何度経験しても知らない物が手のひらに乗っているのは怖い。仮に少しでもこの物体が動けば躊躇なく床へと叩き落とすだろう。
「ついこの間適当に薬を弄っていたら面白い事を思いついてしまってね。それを河童に話してみたら向こうが乗り気になっちゃって、二人で機械の部品とかを切り離してくっつけて、色々試した末に生まれたのがその装置よ。デザインも大きさも全く考慮していなかったから、一応は試作品ということになるのだけれど」
「貴女…機械を弄る事も出来たんですね。流石自ら天才を名乗っているだけあります」
「機械と言っても月の都で使用されていた物よりかは遥かに単純だもの。安直な名前を付けるなら、『盲目の人の目を見える様にする装置』といった所かしら?」
永琳の口からさり気なく出て来た言葉に青は今日一番の驚きを見せた。普段は殆ど変化することなく常に微笑みを浮かべ続けているその表情があからさまに変化する。
「・・・本気で言っているんですか?」
「本当よ。だからこそこうして貴方に被検体になって貰おうと連れて来たんじゃない。この幻想郷で盲目の知り合いなんて貴方だけだもの」
「にわかに信じられないんですが…河童の技術は凄まじいですね」
「流石に盲目の人間の視界を取り戻す技術は河童にも外の世界にも無いわよ。そうね…貴方は電気は知っているでしょう?」
「えぇ、科学とやらに疎い私でもそれくらいは存じ上げています」
「実は生き物の体も電気の回路の様になっていて、脳から信号を送っているのだけど…目が見えない人はその回路に何らかの異常をきたしているのよ。それを月の技術を搭載したこの装置で補う事で、盲目の人の視界を取り戻す事が出来るって訳。そもそも生き物の脳は右脳と左脳にわかれていて身体への命令は主に――」
永琳の説明を青は黙って聞いていたが、正直あまり頭には入ってこなかった。青にとっては理屈よりも、目が見えるようになるのかという結果の方が遥かに重要だからだ。
「・・・ちょっと、ちゃんと聞いているの?」
「いえ、聞いていませんよ。そんな事よりも早くこの装置を使わせてください」
「貴方ねぇ…まぁ、今回は私が貴方に被検体として協力して貰っている側だから大目に見るわ。それじゃあ装置を取り付けるから少しだけ待っていて頂戴」
そう言って永琳は一度青の手から装置を取り上げ、彼の後ろに回り装置を位置を調節しつつ頭へと装着する。
「重いですね。これでは首が痛くなりそうです」
「あくまでも試作品段階だと言ったでしょう。重いし大きいしバッテリーも長くは持たないから日常での使用には向かないわ」
「ばってりー…とは何ですか?」
「簡単に言うと、バッテリーが持たないというのは長時間使う事が出来ないという意味よ――っと。終わったわ。電源をつけるわね」
永琳は装置に付いている幾つかのボタンの内の一つを長押しする。それによって電源が付いた様だが音や振動等の明確な確認手段が存在しない為、青には今一正常に動作しているのかがわからなかった。
「この装置は貴方の瞳を媒介とするから、瞼を開ければ視界に目の前の光景が映る筈よ。ただしゆっくり目を開けなさい。貴方は普段は何も見ないのだからいきなり目を開けては慣れない光景に脳が情報過多で大変な事になってしまうかもしれないわ」
永琳の言葉に従い、青はとてもゆっくりとした速度で瞼を上げる。感情が顕著に表れた際は何度か瞼を上げることはあった彼であったが、これ程恐る恐ると言った動作で瞼を動かしたのは生まれて初めてであった。
まず最初に彼の視界に飛び込んできたのは、真っ白な景色であった。経験したことの無い『明るい』という感覚に思わず顔を顰め目を細める。
段々と視界が慣れて行き、次に彼の視界の中心にいたのは、姉とよく似た誰かであった。
ここでいうよく似たとは、普通の人間にとってはあまりにも大雑把な表現であろう。しかし過去に目が見えていた期間が極僅かであった青にとって憶えているのは姉の姿のみであり、目の前の彼女はその姉と同じ――所謂人の形をしていた。
「どう…かしら?ちゃんと目が見えているの?」
先程までの自信のある発言とは思えない少々不安げな声を聞いて、青は目の前の存在が八意永琳であることを初めて理解した。
次に視線を下に映すと、自分の腕が震えているのがわかった。青は震える腕をなんとか動かし、のろのろと永琳の方へと腕を持って行き、やがて彼女の頬に触れる。
「成功…みたいね。何か違和感だったり、気持ち悪かったりはしないかしら?」
「・・・」
「青?」
「・・・あぁ、いえ、すみません。少しばかり動揺してしまって何と言えばいいのか…すみませんね」
「貴方、泣いているの?」
永琳に言われて青は彼女の頬に触れていた手を、今度は自分の頬へと伸ばす。確かに彼女の言う通り、頬が濡れている感触があった。実際に触れてみることで、青は自分が泣いていることを初めて認識したのだ。
「すみません…今はこの感情を何と表現すればいいのか…」
「さっきから謝ってばかり。普段の貴方からは考えられない様な発言ね」
彼の様子から危険はないと判断したのか、永琳も僅かに強張っていた表情を緩め、彼を落ち着かせる為に軽い冗談を述べる。それによって青も漸く落ち着きを取り戻して来たのか、段々と表情が普段の微笑みへと戻っていく。
「どうかしら?視覚というものを得た感想は」
「そう、ですね…取り敢えず、これだけは言わせてください」
そこで青は一泊を置いて背筋を伸ばし、永琳へと軽く会釈する。
「初めまして、八意永琳さん。私は八雲青と申します。貴女にお会いできて光栄です」
この日、彼は初めて旧友と出会った。
青が一時的に視覚を取り戻してから早くも三十分が過ぎようとしていた。彼は一度も見たことの無かった永遠亭の診察室を目の当たりにしてまるで子供の様に目を輝かせ、興味津々と言った様子で様々な物を見て、触っていた。
この部屋に彼が知らない物も触れたことの無い物も一つも存在しない。しかし同時に彼が見た事のある物も何一つとして存在していなかった。
「永琳永琳、この透明で下の部分が丸い容器は何と言うんですか?」
「あぁ、それは丸底フラスコよ。貴方がここに遊びに来て暇だった時に、よく輝夜と投げつけ合って何十個も壊していたあれよ」
「これが丸底フラスコ…こんなに綺麗な形で、しかも向こう側が見える程透明度が高いんですね…透明度という言葉の使い方合ってます?」
「合っているわよ。なんだか普段の貴方の言動とは全く違うから四、五歳児に言葉を教えている気分だわ」
そう言って永琳は丸底フラスコにペタペタと指紋を付けては消えていく様子を眺めている青の頭をポンポンと撫でる。彼は四歳児扱いをされている事に不満気な様子であったが、永琳と視線が交わると頬を僅かに赤く染め、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「あら、その反応はどういう意味かしら?貴方が頬を赤く染めるなんて所、初めて見たのだけれど」
「だ、だって人の顔を見るなんてこと姉様以外では殆ど経験が無くて…私、人の顔に耐性が無いんです。だから綺麗な人を見るのは恥ずかしい…」
「嬉しい事言ってくれるじゃない。その言葉、萃香か諏訪子辺りにでも言ってあげなさいな」
青が下手に反撃をしてこないのをいい事に、永琳は彼の頬をツンツンと突き、抓り、両手でこねくり回す。青はそれを嫌がりブルブルと顔を横に振り、再び先程まで座っていた椅子へと座り直す。
「そういえば…永琳、この部屋に鏡はありますか?私、生まれてこのかた自分の顔と言う物を見たことが無いんです。日本に鏡という物が伝わって来たのは私が失明した後の事でしたし」
「それなら私の手鏡があるわ」
永琳は懐から手鏡を取り出し、青へと渡す。青はそれを受け取ってすぐ、鏡を食い入るように見つめ、うっとりとした表情で自分の頬に手を添える。
「ふふん、流石私ですね。同姓ですら油断してしまえば惚れてしまいそうなほどの素晴らしい美貌を持っています。この顔を毎日鏡で見る事が出来なかったのだと思うと…自分の体を呪わずにはいられません」
「そもそも人の顔をまともに見たことの無い貴方が何を基準に自分の顔が美しいと判断したのよ」
「見た事無いと言っても殆どですよ。数人程度は見たことがあります。それに今まで何十人もの異性を落として来た私の顔が醜い訳も平凡な訳も無いでしょう?鏡の向こうの自分に惚れることは無いようで安心しました」
「貴方ねぇ…」
青の言い分に永琳は思わずジトっとした視線を向け、溜め息を吐く。しかし何時ものように軽口を言っている彼も恥ずかしさ故か決してこちらに顔を向けようとはしないので、何処かいつも通りの雰囲気にはなりえない。
「永琳、この装置を姉様に見せに行っても良いですか?」
「今日は駄目ね。さっきも言ったけどその装置は試作品だからバッテリーも長くは保たない。それにその装置は言わば脳に電気信号という異物を直接送り込んでいる様な物だから、脳の負担だって大きい筈よ。だから長時間の使用は控える必要があるわ。また使いたいのなら、明日来て頂戴な」
そう言うと彼女は素早く装置の電源を切り、青の頭から装置を取り外す。普通の人間なら視界を取り戻した後再び闇に放り出されるこの状況は耐え難い物なのだろうが、日常生活において何ら不自由のない青にとっては多少残念な程度だ。その程度でショックを受ける様な柔な精神は持ち合わせていない。
「はい、お疲れ様。今日の用事はそれだけだからもう帰っても良いわよ。また明日来てくれたら、実験ついでに装置を装着した状態での外出も許可してあげる」
「それはそれは…明日が楽しみですね」
最初の内は永琳が自分を攫うなど珍しいので何事かと思ったが、自分にとって利益のあることでよかった。
明日驚かせたいからこの事は姉達には内緒にしておこう。青はそう決心した後指を鳴らして能力を発動し、永遠亭を後にするのであった。