ダスカに片想いして結局告白すらできず卒業を迎えたクラスメイトのモブになりたい人生だった 作:石焼ビビンぱ
春の陽気に包まれながら、頬杖をついて前を向く。
この人キャラ作ってるな、って第一印象。
本気で演じてるんだな、っていう第二印象。
でもやっぱり勿体ないな、っていうのが第三印象。
ひたむきで純粋な熱意を、どうしてそう隠そうとするんだろう。
「ダイワスカーレットです。目標は一番のウマ娘になることです。よろしくお願いします!」
『夢』ではない。
『目標』だ。
これですら繕った抑え目な自己紹介だってのだから、恐れ入る。
幼心に、綺麗だと思った。種族的に美人ばかり生まれるだとか、そういう話をしているのではなくて。心の在り方が、情熱が。『これが自分のサガなんだ』って疑わない、まっすぐな強さが。
とても、綺麗だと思ったんだ。
──『ダイワスカーレット、脚色は衰えない!』
出る杭は打たれる。
悪意を自制する勇気を知らぬ小学生の間で、ことさら顕著な傾向だった。お前には無理に決まってるって、面と向かって言う度胸も無いのに、ひそひそと、影が蠢いた。
彼女は、毛ほども気にしていなかった。きっと気にする暇もなかった。
彼らも、もう忘れてしまっている。手のひらを返して彼女を称える。
たぶん、僕だけなのだ。他人事のように聞かなかった振りをしたくせして、彼女に向けられた悪意について、じめじめと陰湿に思い出すのは。
──『先頭は依然、ダイワスカーレット!』
きっかり半年前の記憶が、耳を殴りつける。
歓声に包まれる競馬場で、彼女は片手を振っている。観客の全てに手を振り、笑顔を振りまく。ますます熱狂し、湧き上がるファンたち──
1番になるのだと、いつも言っていた。
トレセン学園への入学が決まるころには、クラスの大半が悪意を敬意へと変えていて、ちょうど今みたいな歓声で、彼女は胴上げされていた。
今でも鮮明に思い出せる。
得体の知れない、胃のむかつきと共に。
──『ダイワスカーレット、強い走りだ! このレースの主役は間違いなくこの子でした!』
僕はきっと、恋をしていた。自覚したのは、つい最近。
今更になって、煌びやかなステージでセンターを飾る彼女に、一方的で安全な執着を抱いていた。
だって、近くに降りてきたところで手を伸ばせない。
釣り合わないと誰よりも自覚しているくせして、いざそれを知らされることに、耐えられやしないだろうから。
彼女はいつも前を向いていた。
僕はいつも、ただの傍観者だった。
──だから。
「うぅ……意外に寒いわね。暗いし寒いし、蛾が飛んでるし、やっぱり寒いし……こんなとこ、アイツに見られたら、何言われるか分かったもんじゃないわ」
彼女が深夜の公園で右往左往している姿なんて、想像だにしていなかったのだ。
────
燕尾服とスカートを合わせた勝負服ではなく、かの名門トレセン学園の制服でもない、稲毛色のトレンチコート。硬めのシルエットでブランコに座って、ダイワスカーレットは途方に暮れていた。
なぜ後ろ姿だけで判別できたかといったら、そりゃあ髪型と尻尾が特徴的過ぎる──マジレスは置いておいて、同窓会だ。先日、高校生の年齢になった我々は、そこいらのファミレスで同窓会を開いたのだ。そこにダイワスカーレットもいたので、記憶に新しいというわけである。
誰に言うでもなく状況を整理して、僕は身なりを確認する。埃無ければ、誇りも無い、着られてばかりのエプロン姿。あぶな、着たまんまだった。雑にポケットにしまって、僕はスキップ。できる限り、足音を大きく立てて。
「……こんばんは、スカーレット。3日ぶりかな」
「え、あ、こ、こんばんは……って、アンタか。びっくりして損したわ」
品行方正な優等生の仮面が半分ついて、即座に剝がれる。残念なことに、僕に気を許しているのではない。取り繕っても無駄であるからそうするだけだ。
不幸な巡り合わせによって、彼女の裏の顔を偶々見てしまったこと。それが、彼女が僕ごときと交友を結ぶ理由であり、僕が自ら、高嶺の花に話しかけに行ける理由でもある。
「……んで、何の用」
君が心配で声をかけたんだよ、なんて言えるほど心が強かったなら良かったが。生憎、問答の内容を想定して、既に答えを用意してある。「ほら、同窓会、途中で帰っちゃっただろ。タイムカプセルの中身、返してなかったと思って。ほれ」
お菓子の空き缶を取り出し、その中から彼女の分の品を手渡す。小さな封筒だ。正方形の紙を折って作られた、おそらく『3年後の自分へ』的な手紙。プライベートに踏み入ったような罪悪感があり、よそ見しながら突き出すと、彼女はじろりとこちらを睨む。
「なにその反応。まさか、見たんじゃないでしょうね」
「それこそまさか。僕の人徳が信頼されているから、タイムカプセル係なんてものに選ばれたんだろうが。少なくとも、人さまの秘密を許可なく覗き見るような真似はしないよ」
「ふん、どうだか。事故を装って、とか、アンタのやりそうなことだわ」
決してわざとでは無かったのだが、似たような過去があるだけに反論しづらい。笑って誤魔化せば、彼女は呆れたようにため息をついて、手紙をじっと見つめて。
「……ありがと。あの時、助けてくれて」
おや、と思った。彼女の方から、それに触れてくるとは思っていなかったから。
同窓会というのは往々にして、出席者の武勇伝の応酬になるものだ。1番パンチの強い経歴を持つ彼女が話の中心になるのも、また自然なことだった。
誰が言ったか、貸し切りの店内に、声はいやに大きく響いた。
──『それにしても、惜しかったな。有馬記念。まあ2着でも大したもんだ、トリプルティアラのウマ娘がまさかうちのクラスから出るとは──』
二の句が継げぬとはこのことで、ガラスが割れる音とともに、静寂が訪れた。ダイワスカーレットの席のグラスがたまたま席から落下し、割れてしまったのだ。そういうことになっている。
彼女に注目が一斉に集まる。まずいと思った僕は、咄嗟に声を張り上げた。
「それじゃ、ここでタイムカプセル返却タイム! 名前を呼んで10秒以内に取りに来なかった場合、中身を音読しちゃいます☆」
しらっとした『空気を読め』の視線も、実際に名前を読み上げていけば瞬く間に焦りに変わる。最終的に一致団結したクラスメイトに袋叩きにされる憂き目にあったわけだが、礼を貰う程度には役に立ったようで何よりだ。
「グラスを片付けてくれた子も、濡れた私をお手洗いに案内してくれた子も、アンタの差し金なんでしょう?」
「バイトリーダー面目躍如ってやつよ。アイコンタクトで伝わる圧倒的組織力。日頃の指導の賜物よのう」
「褒めるとそんな感じに照れ隠しするのが気持ち悪い、ってあの子たち言ってたわよ」
絶句した僕を眺めて、彼女はくすくす笑う。──僕はと言えば、順序が分からなくなっていた。というのも、彼女の笑顔を視界に収めるだけで、なんかこう頭に幸せホルモン的なナニカがぱーっと湧き出てくるのである。『くすくす笑うのを見て、絶句した』状態。
恋は盲目と言うが、これはちょっと酷すぎる。脳内物質の働き的に3年しか保たないはずのドキドキに未だに囚われていて、声すら出せやしないなんて。
「……裏表の話なら、そういう君はどうなんだよ。トレセン学園って全寮制だったろ。優等生のスカーレットさんが門限を破るなんて……先生、ショックだわ」
「ちっとも反省してないのね。その似てない物真似で盛大にゲンコツ喰らってたのに。そんなだからバイト先の後輩に嘗められるのよ」
いやほんと、自分でもどうかしてると思う。幸せに突き動かされて、道化を装った感じの喋り方しかできないんだ──道化そのものだな。
笑顔が呆れた半目に変わって、彼女はツインテールをかき上げる。
「門限は問題ないわ。きちんとした届出を書けば、夜間外出だって出来るのよ。アンタと違って、私は反省から学んで、成長してるの」
今のは無断外出の過去を自白したようなものなのだが、そこのところ分かっているのだろうか。
同じく半目を作ってみせるも、彼女はすでに僕を見ていなかった。いや、顔を向けてはいるのだが、僕の後ろを見つめて、目を丸くして──
「隠れて!」
切迫した小声とともに、ふわりと眼前に甘い香り。スカーレットは無遠慮に僕の肩を掴み、身を屈めるように促してくる。訳も分からぬまま言われた通り膝を曲げると、彼女も追従して座り込み、僕の顔の前で「しぃー」。
大人と子供の中間、整った童顔とでも言えばいいのか、人生で見たうち1番の美貌が、すぐそばにあった。
お互いの息がかかるほどの距離で、心臓が早鐘を打つ。
「……スカ「スカーレットはどこだ!」
……そのまま心臓止まるかと思った。当のスカーレットは頭上の長い耳を畳んで、顔を下に向けている。事情をよく知らないが、彼女はこの声から逃げているのだろう。
声の正体は、先程から凄まじい足音を立て、車もびっくりのスピードで周辺を走っている。まず間違いなくウマ娘だ。
ダイワスカーレット以外のウマ娘について、僕はあまり詳しくない。それでも、騎士みたいな凛とした声の持ち主には覚えがある。エアグルーヴ──生徒会副会長にして、スカーレットが直接面倒を見てもらっている先輩ウマ娘。
足音が遠ざかったのを見計らって立ち上がる。
「…………スカーレットさんや。届出、書いたんじゃなかったのかい」
「書いたし、出したわ。…………受け取ってもらえたかは、分からないけど」
バツが悪そうに言葉の後半で視線を逸らすじゃじゃ馬娘。要するに家出同然に書置きを投げつけたということであり、今度こそ半目にならざるを得ない。
「わざわざ怒られるリスクを取る理由は知らんがな、こんな夜更けに外に出る時点でどうしようもないんだし、優等生のふりなんてとっとと止めちまえば良かったのに。これじゃ無断で出て行くより質悪いぜ、『届はきちんと出しました』なんて頓智が通じる相手じゃない」
「……そんなこと分かってるわよ! でもしょうがないじゃない、どうしようもなかったの!」
先程まで隠れていたのを忘れてしまったのか大声で駄々をこね、こちらを睨むスカーレット。僕の胸中に生まれたのは、高揚と、好奇と、心配。
高揚については言うまでもない。僕は彼女に恋をしていたのだ。
好奇については、優等生の仮面が剝がれるリスクを負ってまで、こんなことをするを知りたい、ということ。
心配についてはこれまた、言うまでもない。一応僕らは同級生だ。前2つの理由を抜きにしても、この感情は生まれて然るべきものだ。
いつの間にか口が動いていたようで、彼女の睨みに、困惑が宿る。
──「1日くらいなら、匿ってやれるけど、どうする」
拒絶されるなら、それでよかった。
最後まで言い切った頃にはすでに、スカーレットが僕の頬をひっぱたいてエアグルーヴの方へ走り去る姿を幻視していたし、なんならそれを望んですらいた。
月を見て感傷を慰めることはあっても、太陽を見て、そんな気分になれはしない。
僕1人の捻じれた欲望を満たすのに、彼女の輝きは強すぎる。きっと気分が悪くなるだろうと、心の内でげんなりすらした。
それでも、彼女の言葉を借りるなら──
『どうしようもなかった』のだ。
────
「……お、お邪魔します」
「邪魔するなら帰ったら?」
「アンタが来いって言ったんでしょうが……!」
気味悪がられること請け合いの誘いは、極めてあっさりと受理されて。いつも一人きりで過ごしていたはずの空間に、初めてのお客様を招くこととなった。
玄関開ければ廊下にキッチン、少し奥に手狭な部屋1つ、中身はちゃぶ台とベッドと物干し竿──ザ・大学生の1人暮らしって感じの1K物件だ。不動産屋の勧めるままに契約した。
両親はすでに他界していて、親戚の援助とバイトで食いつないでる。そう説明した時のスカーレットの表情は、これまで見たことのないものだった。『またやってしまった』とでも言わんばかりの、己を責める苦い顔。知っているものだと思っていたので、むしろこっちが申し訳ない。いらぬ気を遣わせた。
今はだいぶ薄れて、座布団に正座して周囲を物珍しそうに眺めているけど。
「アンタ
「なんのこと……ああ、ポスターね。まあ、人並みに憧れはあるよ。乗ってる人がカッコイイんだ」
壁に貼られたポスターからこちらに目を向け、きょとんと首を傾げる。
「テズモセディッチGP22、レース専用のオートバイだよ。で、それに乗ってたライダーが、3年前のワールドチャンピオン。カッコいいだろ、世界一速い人間だぜ」
旧交を温めるには、少々形式的でも、思い出に残っているキーワードを連呼するのが望ましい。そう思って、彼女が常々言っていた「1番」を絡めてみたのだが、見事に地雷だったようで。
彼女はポスターに視線を戻したかと思えば、じっと見つめて──横顔を見れば、声も出さずに、細い涙を流していた。
「……2日寝かせた、自慢のカレーがあるんだ。温めてくるよ」
花粉症かハウスダストか、体のいい誤魔化しに気付かぬふりして背を向けて、廊下に置かれた冷蔵庫を目指す。
胸中の疑問は燻ったままだ。
同窓会での振る舞いや今の涙を見るに、『有馬記念で2着を取ったこと』が原因で、彼女は家出をしたのだと推測できる。それに異を唱えるのが、過去の自分の記憶。
2着を取ったなら次は殺す気でリベンジする程度に負けず嫌いな彼女が、たった一度の失敗とも呼べぬ失敗で、ここまでリスキーな行動に走るだろうか?
分からない。
ただ、バイト終わりの食欲は、想い人への疑念を凌駕する。ぶっちゃけ「食べ物が喉を通らないほど」って言葉は噓だと思っている。
ちなみにスカーレットによるカレーの味の評価は「普通」だった。トレセン寮で肥えた舌を満足させるには至らなかった訳だが、高望みというやつである。そもそも、味に関しては話題の焦点の外だった。
一口食べて開口一番、彼女はこう言ったのだ。
「2日寝かせたって、ウソでしょ」
得意げな顔をしているのは、彼女が他人を打ち負かすことに快を覚える鬼畜だからではなく、僕らがそういう遊びをして育ったからだ。
自分の秘密を一方的に知られたことが面白くなかったのか、彼女は僕の嘘──趨勢に影響しない言葉の綾──を看破することに、会話の楽しみを見出したのだ。
……あれ、やっぱ普通に性格悪いな?
「ご名答、今朝仕込んだばっかりの出来立てほやほやだ。やっぱそういうの分かるもんか」
「アンタが馬鹿舌すぎるのよ。甘すぎるのは苦手だって言うから、ビターチョコに唐辛子混ぜたりとか工夫したってのに、ちっとも気付かないんだもの」
「あの時は君の執念を侮ってたよ。まさかクラスメイト全員の好みを把握して隠し味を仕込むとは思ってもみなかった」
バレンタインの義理にも全力、それがスカーレット。主題を引っこ抜いた会話が成立したことで、共有した過去を確認し、笑い合う。肩を震わせて口角を上げる彼女は記憶より一段と綺麗になっていて、思い出話につい熱が入る。
気づけばお互いの皿は空っぽになっていた。彼女の分もまとめて流しに置いて、水に漬けておく。部屋に戻ると、スカーレットは居ずまいを正して。
「それじゃ、約束、果たさないとね。メモ帳とか、用意はできてる?」
唐突に、訳の分からぬことを言う。首を傾けてみせれば、彼女は目を丸くして、それから、今日一番の呆れ顔。
「アンタ言ってたじゃない。トレセン学園で過ごしたウマ娘の経験を聞いて、それをもとに話を書いてみたい、って。アタシはきょう、そのために誘われたと思ってたんだけど。ただの善意で匿ってくれたってワケ? どんだけお人好しなのよ」
そのセリフでお人好し扱いされるべきは君の方だ。自分の境遇すら危うい状況で、小学校時代の口約束を果たすことに頭を働かせられる方が、よほどであろう。
もしくは、本当の本当に切羽詰まっていて、気を紛らわすためであるのかもしれない──ここまで考えて、思考を取りやめた。意味がない。どちらにせよ、僕は話を聞きたいと思っているし、彼女は話したいと思っている。
「3年間の積み重ねか。長くなりそうだな……とはいえ、ありがたい。舞台裏は常々気になっていたんだ。例えば、オークスに出場した経緯とか。君はウオッカを追って日本ダービーに出走するんじゃないかと思っていたから、シンプルに意外だった」
「……待って、どこまで知ってるの?」
「都合が悪くてテレビ中継に頼った日もあったけど、君の走った14レースについては把握しているつもりだ。グッズはこの通り、安めのタオルくらいしか持っていないから、コアなファンかと言われると怪しいが」
マフラータオルを物干し竿から取って、広げてみせる。『DAIWA SCARLET』とデカデカ書かれた名前と共にキメ顔で映る自分を前に、スカーレットは顔を覆った。
「……というわけで、出来れば裏側に焦点を当ててくれると助かる。無論、プライバシーを優先するから、話したくない内容は伏せてくれて構わない」
「その気遣い、もうちょっと前にやってくれないかしら!? なに、自分のグッズが手拭きに使われてることを知って、アタシはどう反応したらいいのよ!?」
「レースを追われていることに対しての不服なら的外れだ。君は僕ら6-A組のスターなんだぜ、有名税ってやつだろ。タオルに関しては……うん、吸水性が良いのが悪い。観賞用とか悠長なこと言うほど経済的余裕がなくてね」
彼女はしばらくタオルと僕を交互に睨みつけ唸ったあとで、追及を諦めたのかながーいため息をつき、「その写真を撮ったカメラマン、口がすごく上手くって。『トレーナーさんに見せるつもりで』って言うもんだから」
──そうしてなし崩し的に切られた、思い出話の口火。
メイクデビュー1着、フェアリーステークス4着、エルフィンステークス1着。
チューリップ賞3着、桜花賞1着、オークス3着、秋華賞1着。
エリザベス女王杯1着、大阪杯1着、天皇賞秋1着。
──幸先の良いデビューを飾った矢先、次戦でいきなりつまづいてしまった。心内のショックを糧にして、次のレースで1着をもぎ取った日、トレーナーと喜びを分かち合った。
──夏合宿でメジロマックイーン、トウカイテイオーと共にカレーを作った。家事音痴な2人の面倒を見ていたら、トレーナーに『お母さんみたい』と揶揄われてしまった。
──オークスへの出走は、トレーナーと相談して決めた。思考停止でライバルの尻を追うより、一度決定した目標を貫いてから、再び自分の道を考えるべきだと諭されたのだ。
バレないようにこっそり時計を視界の端に入れれば、話し始めてノンストップで1時間が経過していた。
彼女は自分で気付いているのだろうか、時間はさておき、さっきっから惚気がすっごいことに。
「それでね、トレーナーが──」
「君の話には、ひとつ噓があるな」
うんざりしながら口を挟むと、彼女は怪訝な顔をして言葉を止める。
カレーの一件の仕返しという側面もあるが、何より一息つきたかった。主題がどんどん『トレーナー』の方へ逸れていって、胃がもたれてきたのである。もとより成就するはずのない恋だと見切りをつけてはいたものの、こうもはっきり突き付けられるときついものがある。
「ミストレの話だよ。今でこそ選ばれて当然みたいな澄ました顔をしてるけど、当日の君は凄い、鬼気迫る勢いだった」
「見てたの……!?」
「何を今更。君は僕ら世代のスターだぜ。レース共々、動向を追っていたところで不思議はあるまい」
「だってあれは……トレーナーが他の子に目移りするから……」
うーん、迂闊。
赤面してここにはいない誰かに怒りを向ける彼女に、僕は内心で舌を出した。我ながら悪手極まれりである。当日カレンチャンの方向をやたら睨んでいたあたりから察するべきだった。スカーレットが燃やしていたのは嫉妬の炎だったのだ。
ビジネスパートナーへの親愛で説明するには無茶があろう。彼女は現在進行形で恋をしているのだ。自分を導いてくれた、年上の格好いいお兄さんに。
「ほんと、アイツには羞恥心が足りないのよ。勝負服を着てみせた時だって、『俺が見たかっただけ』なんて素面で言うのよ。相応に恥じらってくれないと、釣り合いが取れないじゃない────」
一応は僕から言い出した約束なのだから、傾聴の姿勢を崩すべきではない。そう思いながらも、予想外の連続で積もった疲労が、重くのしかかって。
あろうことか、僕はここで寝てしまったのである。
────
……。
……。
……。
……始まりは、本当に偶然だった。
学校が終わり次第、空に放たれた鳥みたいに一目散に家に帰って、蜻蛉返りで外へ出る。そんな生活を続ける僕に、放課後の教室は縁遠いものであったから。
その日は、偶然にも忘れ物をしたのだ。空気で膨れたサッカーボール。紐のついた袋に入っていて、蹴り上げながら家に帰るのが日課だった。あれがなくては帰れない。公園で遊ぶ約束をしているのだから。
夕陽の差し込む教室に、大した感傷もなく扉を開けた。あの頃は人生が無限にあると思っていて、終わりを考えたことなんて、一度だってなかった。
だから、その声は、本当に、不意打ちだったんだ。
「あ゛~、もう! どうしてこんなうっかりミスしたのよ、アタシ! これが無ければ、満点だったのに!」
苛立ちを乗せた、荒々しい声。
それとかぶさる形で扉の開閉音が響いて、教室の中央で頭を抱える彼女に来客を知らせる。自戒に満ちた「に」が不自然に切り上げられ、可動域を超えた扇風機みたいな緩慢さで、首をこちらにギギギと回す。
燃える瞳と目が合って。
それで、
時が、止まった。
「……あ、あら、奇遇ねこんなところで。アタシ? テストの見直しをしているの。同じところで間違えちゃいけないから」
無理に繕っているのは一目で分かるのだし、「仮にも自分の通う教室をこんなとこ呼ばわりってお前」とか、「自分は忘れ物です、それじゃあ」とでも言って、気づかないふりして誤魔化せたら良かった。実際は、舌の根が乾いて、何の言葉も出てこなかった。
そりゃあそうだろう。
原因はともかく、遠巻きに眺めていた好きな子が、自分のことを個人として見つめてる。それ以上の喜びが、他にあるかな?
それはそうと、彼女は──スカーレットは僕の沈黙を呆れと捉えたようで、顔を赤くして憤慨し、ずかずか僕に近寄って。
──『いい。これは、秘密だから。他の子には、絶対内緒』
それが、1日目の記憶。
人生について考え出した、1日目の記憶だ。