ダスカに片想いして結局告白すらできず卒業を迎えたクラスメイトのモブになりたい人生だった 作:石焼ビビンぱ
1月の寒空に感化され暖房ガンガンになった控室で、図書館で借りた本を開く。タイトルは『トレーナーへの道 トレセン学園インタビュー!』。トレーナー業のノウハウ給料やりがいエトセトラを先達に聞く、言わばパンフレットだ。
もっとも、すでに得たかった情報は得られたので、文字が目を滑るばかり。
脳裏にあるのは、出がけに見てしまったスカーレットの寝顔。涙の跡でほんのり赤らんだ目元、赤子のように体を小さく丸めて眠る姿。
悪夢にうなされていたのか、こちらに向かって手を伸ばして来た時は、反射的に手を取ろうとしてしまった。
──『トレーナーぁ……!』
……まあ、知ってたよね。
ので、僕が後ろ髪を引かれているのは、手を取らず引っ込めた罪悪感というより、調子の悪い彼女を家に置いて行ったことそのものにある。
「良い夢くらい、見たってバチは当たらんだろうにな」
夢という言葉が指すものは、2種類ある。
ひとつ、入眠時の記憶整理の傍らに見る、ストーリー性のある幻。
ふたつ、起きながらにして見る、将来像。多くの場合非現実的な、人生を賭けた最大目標を指す。
普通に考えて、先に意味が成立したのは眠って見る方だろう。そこから転じて、大風呂敷を広げる人間を見咎めて、後者が成立したのではないかと思う。
もっとも現代では、夢は「見なければならないもの」だ。個人として成立するために、必ず持っていなければならないものだ。夢を見ない自由など、この世に無い。何者でもなくいると、世間がせっついてくるのだ。
と、今朝に見た悪夢と、現在の心理状態を統合した会心の一言だったのだが、独り言らしく呟いたのがよほど鬱陶しかったのか、連れ合いにじろりと睨まれた。
「先輩、こないだは一流のホテルスタッフになるって言ってましたけど、今度はウマ娘のトレーナーっすか。いいっすね、夢がいっぱいあって」
緑色のエプロンを身につけた小柄な女の子が、もとから細い目をさらに細めて皮肉を飛ばす。黒のエプロンをつけた僕はバイトリーダー、一応は上司であろうに、向けられるべき敬意が欠片も見受けられない。
「敬意が欲しけりゃ、まずは自分の都合を自分一人で片づけられるようにしてほしいっすね。気付いてないとても思ってます? 今日、ずーーーーーーーっと上の空でしたよ。スタッフとお客様に無用な心配をかけておいて、なにが上司っすか。とっととやめちまえってんですよ」
普段の数倍の鋭さを持った諫言に、思わず彼女の顔を見る。眉間に皺を寄せ、僕を──よく見れば、本の表紙を睨みつけていた彼女は、視線に気が付くと、ふい、と顔をそむけた。
「なんすか。訂正はしませんからね。とっとと辞めて、愛しのダイワスカーレットちゃんのトレーナーにでも何にでもなっちまえってんです。部下を顎で使って助けるくらいお熱なら、天職でしょうよ──先輩の才能じゃ、無理でしょうけどね」
「やっぱり、そう思うか」
は、と彼女は間の抜けた返し。それから少し黙って、「いや……まあ……そこまで思いつめるほど本気なら…………頑張れば、可能性は、なきにしもあらずというか……」とか言うので、思わず吹き出してしまった。
今度こそ真正面から睨まれ、僕はどうどうと両掌を向ける。
「言い方が悪かった。僕が聞きたいのは、僕がスカーレットのことを助けそうに見えるかってことだ。例えば、スカーレットがここで働いていたとして、彼女がミスをしたとしよう。店長はカンカンで、これはバイトリーダーの監督責任だとして、金輪際同じ時間帯にシフトを入れないようにした。その日のシフトの終わり際、彼女がグラスを割ったとして──僕は助けに入りそうに見えるか?」
「普段からそんな妄想してるんすか、最高にキモイっす。金輪際近寄らないでください」
潰れた虫の死骸を踏みそうになったみたいな反応をするので、僕は半歩近づく。彼女は半歩遠ざかる。千日手を5分ほど繰り返し、飽きたのか、もとの距離に戻って。
「……それに、その問題は仮定に意味がないっすよ。先輩があの時スカーレットさんを補助したのは、職務の繋がりに因るものじゃないでしょう。貴方は助けた。過去に助けた。であれば、私は、『助けそう』と答えるほかありません」
返答を聞いて、頷く。
さて、今しがた読んだトレセン学園のトレーナーへの取材には、こう書かれていた。
──『トゥインクルシリーズは最初の3年間がとても重要です』
──『デビューから3年で一定の成績を残せていなかった場合、ウマ娘との担当契約が解除されてしまう可能性があります』
数多のGIレースでどかどか1着を勝ち取っていたのに、有馬記念ひとつ2着だっただけで契約解除とはこれいかにとは思うが、そこは厳しい勝負の世界。僕に口を差し挟む余地はない。
学園側が血眼でスカーレットを捜索し、トレーナーからのアプローチが今のところ無いであろうことにもつじつまが合う、クレバーな解答──自分で言っていて、違和感が凄いのだ。だから後輩にこんな実のない質問をした。
スカーレットの口から語られた、『トレーナー』。
ウォッカと比べられ荒れていた彼女を唯一見初め、その手腕でトリプルティアラを掴ませた。
優等生の演技に調子を合わせ、気疲れすれば愚痴を聞き。大人として先を導き、友人として目線を合わせる。そうして最後には、彼女にとっての生きる意味とも言える『1番』を具体化した、唯一無二の彼女の相棒。
さて、そんな彼が契約解除の憂き目に会ったとして、大人しくしているだろうか。
仮に大人しく命令に従ったとしても、最後の挨拶すらないというのは──
「先輩」
咎めるような声で、我に返る。
「何をしようとしているのか知りませんけど、やめた方がいいと思うっすよ、その先を考えるのは」
さっきまで離れようとしていたくせして、いつの間にか彼女はすぐそばにいた。その小さな体を生かして懐に潜り込み、僕の胸をグーでとんと叩く。
「良いじゃないっすか、今が幸せなら。先輩が何もしなくたって、相手に確固たる意志があれば、事態は勝手に転がるんです。余計な世話を焼いて、ひょっとしたら掴めたかもしれない幸せを、むざむざ捨てることないっすよ」
最初に聞くべきは、「どこまで知っているんだ」なんだろうけど、バカを晒すようで聞く気になれなかった。大方、ファミレスでのガイゼル髭野郎との会話を聞いたとかだろう。
一歩引くと、彼女は一歩近づく。もう一歩引くと、さらにもう一歩詰めてくる。
「『近寄るな』じゃなかったか」
「こっちから寄らないとは言ってないっすね」
「屁理屈捏ねやがって」
「噓をつくのに慣れ過ぎて、自分のことすら分からなくなった先輩よりはマシですよ」
にっこりと、小柄な彼女は毒を吐く。
迷いを生む甘い毒水を、滔々と耳に流し込む。
「先輩はもっと、自身に向けられた信頼を信じても良いと思うっす。彼女、案外満更でもなさそうでしたよ。先輩の指示だって教えてあげたとき」
頬を染めて、視線を逸らすスカーレット。ここ2日で、さんざ見た表情──それがもし、僕に注がれていたら?
少し考えて、すぐに振り払った。カラスに荒らされた生ゴミを見るような目で、後輩が身を離していたことに気づいたからだ。
「……やめてくんねーかなあそういうこと言うの。無責任だぜ」
「実際他人事っすからね。先輩のことは嫌いですし、いい気味です。それじゃ、私はこれで。帰る前に鏡で顔、確認することをお勧めするっす」
余計なお世話だ。それにお前と違って、俺は居残り業務だよ──自動ドアを背に小さくなる後ろ姿に、バレないように舌を出した。
玄関開けたらエプロン姿でとはならなかったものの、彼女のスニーカーは靴置きに健在だ。泣き腫らした後、我に返って出て行っているかもしれないと思っていたが、どうやらまだいるらしい。嬉しいやら、顔を合わせにくいやら。
扉を開けると、スカーレットはちゃぶ台の前で正座していた。そして僕の帰宅に気付くやいなや、勢い良くビシッと人差し指を突き立てて。
「今度はアンタの番よ。これまでの話、聞かせなさいよ」
「ただいま」
「えっ、あ、うん。じゃなくて、これまでの話──」
「ただいま」
「……お帰り?」
「よし」
「……よしじゃないわよ! なんでガッツポーズしてんのよ!」
昨日のことはそこまで引きずっていないようで何より。決め台詞に茶々を入れられ肩を怒らせる彼女を宥めて、自分も座る。
「で、なんで僕の過去なんか」
「アタシほどじゃないけど、アンタもそこそこ噂になってたのよ。……なんでも、大学生と付き合ってたとか?」
「ソースは」
「アンタの後輩」
「おっけ、シメとく」
出来もしないだろうことを嘯いて、虚空に中指。
「あんま面白い話じゃないよ。特に、君みたいな優等生には」
両親が急逝してからというもの、僕は一時期ひどく無気力だった。心の支えを失い、学校にも行けなくなった。
朝起きても、夜帰っても、誰もいない。体育で怪我をしても、テストで酷い点を取っても、心配されない、怒られもしない。張り合いが無かったんだ。
──「そんな下ばっか見てると、幸せが逃げちゃうぞ☆」
公園のベンチで独りやさぐれていた時に、その人は突然現れた。
許可も取らず馴れ馴れしく隣に座り、バンバンと肩を叩いてくる。おまけに嫌々顔を上げたら、じっと目を合わせて、「何があったの」と来た。
え? どう答えたのって、勿論、全部正直に話したよ。相手が不審者とはいえ、学生としての義務を放棄していたぶん、暇だったから。……ほら言ったろ、顰めっ面だ。面白い話じゃないんだって。
はいはい、続きね。
両親の葬式が1週間前にあったこと、顔も知らぬ親戚からの仕送りで生活していること、1K物件で中学生の癖に一人暮らししていること。それらを聞いた彼女は、こう言ったんだ。
──「私たち、付き合いましょ!」
……言いたいことは分かるよ。だからいったんコップを置こうか。貴重な備品だ。
置いたね? オーケー、これから10秒、触っちゃダメだよ。
誘いに頷いて、僕らは付き合い始めたんだ。その相手が、件の大学生──わお、「開いた口が塞がらない」の挿絵にできそうな表情だね。
どう考えても怪しかったけど、当時はホントにヤケになっててさ。騙されてようがどうでもよかったんだ。
意外にも、交際自体は長引いた。とにかく楽しい人でね、暇を見つけては色んな所に連れて行ってくれた。山だったり海だったり博物館だったり、あっちこっちに引っ張り回されたよ。
次第に塞ぎ込んでるのが馬鹿らしくなって、復学して、僕は日常に舞い戻った。
そんなある日の夜。
──「はろはろー☆ 寂しくなって、来ちゃった♡」
自前の枕を持って合鍵で入ってきたその人は、添い寝をしようと誘ってきたんだ。いつも突拍子もないことを言う人だったから、そこまで疑問に思わなかったし、さほど恥じらいもなかった。
どっちかっていうと君の方が恥じらってそうだね。頬、真っ赤だぜ……ごめん悪かった! コップ離して!
……こほん。
で、朝起きたら、その人は居なくなってた。連絡もとれずじまいで、別れたことになるのかな。おしまい。
「……え?」
スカーレットはしばし呆然として、思い出したようにコップをそっと下ろす。
それから顔の高さを下げて、僕の目をじっと上目遣いで覗いて。
「嘘……じゃないわね」
「どういう確認の仕方だよ」
幕切れが唐突すぎたせいか、スカーレットは半信半疑だ。当時の自分を見ているようで、奇妙な笑いがこみ上げる。
「最初は普通に帰ったものだと思ってたんだけど、目立つ場所に手紙が置いてあってね」
──『びっくりするかもしれませんが、実は私、強盗なんです。ひとり暮らしの学生なんてカモを見つけて喜んだはいいものの、予想以上に貴方が荒んでいたものですから、ついつい助けてしまいました。お付き合いはその口実です』
──『思ったよりは、楽しめました。盗んだのは貴方のハートということで。それじゃ、アディオス☆』
「……って、書いてあった。要するに、振られたんだね」
「……ふざけてる」
「な。ふざけた人だったよ」
強盗だったというのも、ホントかどうか分からない。金品の被害は一切なく、むしろ彼女が持ち込んだ家具が、今もこの部屋に残っている。椅子もないのにソファがあるのはそのためだ。
のらりくらり、目的のわからない人だった。
そういう意味でふざけた人だと言ったのだが、ちゃぶ台を叩いて目を吊り上げてるあたり、スカーレットの言いたいことは違うのだろう。
「なんでそんなヘラヘラしてられるの。アンタ、裏切られたのよ。そっちから告白しといて実は元から好きじゃありませんでしたなんて、馬鹿にしてるわ。悔しくないの」
なるほど、そういう観点もあるのか。牧草食ってる草食動物には持ち得ない発想だ。
「いや、全く。そもそも、裏切られたとは思えないんだ。それ以前に貰ったものが多すぎて」
彼女がいなければ、今の僕はない。断言できる。その一点で、彼女はすでに裏切り者と縁遠い場所にいる。
それに、好意の有無を裏切りの基準にするのなら、僕も同罪なのだ。
彼女を異性として魅力的に思ったことは無い。強いて言うなら、腰まで伸びた茶髪と、ふとした瞬間に覗く八重歯。
そう、関係を持ってなお、誰かさんの面影に恋をしていたのだ。よほど僕の方が不義理である。
「貰ったものが、多すぎて……」
ただ、唐突に訪れた別れに戸惑ったのは間違いない。後輩が恋路についてのみやたら世話を焼いてくるのは、そのショックが、生活態度に表れてしまったせいだと思う。だから彼女はいつも言うのだ。「自分の都合を自分一人で片づけられるようにしてほしい」って。
さて、聞かれたことについては話し終えた。問題はさっきから黙りこくって考えごとしてるスカーレットだ。なにか琴線に触れたんだろうか。
「おーい」
「……」
「スカーレットさーん?」
「……」
「……そういや、あのソファは彼女から貰ったものなんだけどさ」
「……!」
スカーレットはびくりと跳ねる。見て見ぬ振りもそろそろ限界。視界の端をちらと見れば、モスグリーンのシーツがひっぺがされ、寒々しくも丸裸になったソファ。帰った時からこんなんで、口を挟む暇もないままスカーレットに話を振られ、ほったらかしになっていた。
僕の過去を聞いたのは話題逸らしのためだと思ったのだが、今思い出したかのようなリアクションを見るあたり、違うのだろうか。
「見ないうちにデザインが変わったなあと思ってさ。こんな真っ白だったっけ?」
「……ごめんなさい。紅茶、こぼしちゃって。染み抜きしたけど、今日じゅうには乾かないと思う」
意地悪な聞き方をしたものだから、反発のひとつくらいあるだろうと思っていたのに、なんだか今日はしおらしい。
「後処理まで済んでるなら、ひとことくれりゃそれで良いのに。雑談で時間を誤魔化そうって心算は、ちょっと感心しないな」
これはまあ、要らぬ一言であったと思う。
彼女は身を縮こませ、僕とソファの間で視線を彷徨わせて。
「……アタシ、今日は床で寝るわ」
耳を畳む姿に、一瞬因果関係が掴めず目を瞬かせたものの、ハッとした。僕の寝床を奪ったことに対する償いだ。
「いやごめん、そこまでしなくていい。毛布敷けば、シーツが無くても気にならないから」
「ダメよ。それじゃ寒いじゃない」
「……僕が床で寝て、上から毛布を掛ければいい。実際ベッドもソファも無かった時はそうしてたんだ」
言いながら、これはベストな答えではないぞ、と思った。案の定ほっそりとした人差し指が、眉間ギリギリに突き刺さる。
「今日はアンタが、ベッドで寝るの。……借りを作っておいてアタシだけイイ思いするなんて、自分を許せるわけがないじゃない」
お互い、理屈はどうでもいいのだ。
彼女は失敗の精算のため、僕は心的負担から、相手にベッドで寝て欲しい。
「平等にジャンケンでどうだ」
「良いわけないでしょ。これはアタシの反省なの」
「そうは言うがね、客人を床に寝かせる苦痛にも少しは思いを馳せてくれると有難いんだけど」
「……だとしても、ジャンケンはダメよ。アタシ、負けられないもの」
「この世には石をも断ち切る鋏が……」とか言うんじゃないだろうなと思いつつ、何も言わずにグーを出してみる。
見てから余裕でしたと言わんばかり、超速で腕が動いてパーが置かれていた。
「……ダメだな」
「……ダメね」
顔を見合わせ、苦笑する。たぶん、この時点で、2人とも、1つの解決策が浮かんでいた。ついさっき話題に上ったばかりの、記憶に新しい、ある行為。
僕が言えたとは思えないし、彼女が言い出すとも思えない。
やいのやいの、言い争いを続けて──
「……背中合わせで、互いの顔は見ない。毛布は個別。枕は僕が座布団を使うので、これも個別。掛け布団は1つしかないので、共有。寝相に自信は?」
「……っ……上等よ!」
ほんと、どうしてこうなったんだろう。
────
暗闇の中でカーペットを見つめて、僕は途方に暮れていた。全くもって眠れる気がしないのである。
一人暮らしの男のベッドにサイズの余裕なんてあるはずもなく、少し身じろぎすればお互いの身体が触れ合うような距離感。当然、体温も肌で知覚できる──ただでさえ状況が状況でこちとら頭のてっぺんまで真っ赤だってのに、そこそこ大柄なスカーレットの体温が布団を伝わってとにかく暑苦しい。ああは言ったけど掛け布団いらんわ。
おまけに、寝る前に言われたひとことが、未だ僕の頭でループしている。
──『スマホは……封印してたな。じゃ、しょうがない。僕のを貸すよ』
彼女のスマホを封じ込めたお菓子の空き缶はベッドの下だ。数箱同じものを用意して、どれが本物か分からなくしたら、恐慌も次第に収まったのだ──と、それはさておき、問題は彼女に自衛手段がないことにあった。
身体能力に物言わせればそれで終わりだが、躊躇してしまう可能性もある。そう思って、自分のスマホを差し出した。
──『緊急通報のやり方、分かるよな? 画面の左下、緊急ってあるだろ。そこ押せば電話画面を呼びだせるから、ロックナンバーを入れずに使える。110番通報も簡単だ』
言葉だけじゃ信じられないし、物証が必要だ。
そんな気持ちで差し出した機械が、力任せに押し返される。
──『バカにしないで』
知識量の話ではないのだと、怒りに燃えた瞳が訴える。
──『誰にだって、ここまで気を許してるわけじゃない』
──『アタシはこれでも、アンタのことを信用してるの。そうじゃなかったら、そもそも泊りなんてしない──いい、もう一回言うわよ。バカに、しないで』
ぐるぐるぐるぐる、感情が巡る。
気恥ずかしさと、嬉しさと、八つ当たりのような、彼女への非難。
だってさ、信頼しているとは言うけど。
僕らはすでに1000日も、全く違う環境で過ごしてきたのだ。酸いも甘いも知らないガキの頃の思い出を根拠にするのは、あまりにも無警戒だ。それなのに一方的に、彼女の信頼を信頼できていない僕の方が悪いと言うのはどうなのだろう。
そんな怒りを燃やしていたのが、功を奏した。
「ねえ、まだ、起きてる?」
背中からのスカーレットの問いかけに、反応が遅れたのだ。いかにも子供じみた反抗心が、ほんの一瞬だけ無視という選択肢を提示し、勘案のために無言になる。結果としては、それが正解だった。
「これからアタシ、独り言、言うから。起きてるなら、そのままでいて。寝てるなら、起こしたらごめん」
ひゅ、っと息を吞む。とっさに自分の鼻と口を塞ごうとして、動いたら起きていることになると気付いた。結局僕にできたのは、体を硬直させることだけ。
自分の息の音がいやにうるさくて、そんな中を、彼女の声が、針の穴から耳に届く。
「今はどうなんだって、アンタ言ってたわよね。昨日、トレーナーと初めて会った日の話をしたとき。あのときは教えてなかったけど、トレーナーとウマ娘の契約は条件付きのもの。トゥインクルシリーズの最初の3年間で結果を残せないと、解除されちゃうの」
ここでその話ということは、日中の推測は的を射ていたらしい。
「知ってはいたけど、どこか他人事だった。アタシたちなら大丈夫だって、何の根拠もなく信じてた」
自嘲に満ちた、一周回って穏やかな調子で。
「有馬記念で2着を取って、トレーナーといったん別れて、アイツが出た方がいいって言うから、気乗りしないまま同窓会へ向かったの」
それで『2着でも大したもんだ』と来たら、グラスを取り落とすぐらいのことはする。ひとつひとつ、疑問が氷解する。
「結局途中で抜け出して、寮に帰って。ガサツに置かれたウオッカのスーツケースの横で、ずっと、ただただ座ってた」
ウオッカは有馬記念の出場を回避し、海外武者修行の旅に出る予定だった。有馬記念の当日は、確か飛行機トラブルでフライトが1日延長になっていたはずだ。
頼れる友人は、翌日に海の向こうへ。心細いはずだ、と他人事のように思う。それで、そんな中──
「電話が鳴ったわ。トレーナーじゃ、なかった。あなたたちは、今日を以て、契約解除になりました、って、無機質な声で……それで、さ。思い出しちゃったのよ。その日、言われたばっかりのこと」
──『でも今みたいにピーピー泣くんだったら1番なんか到底無理なんじゃねーの?』
──『しょーがねー。海外やめて有馬に出てやるか。そしたら変に気負う必要なくなるよな?』
「アタシに気を遣ってアイツが自分の道を諦める姿なんて、冗談でも考えたくなくて。でも、鏡で自分の顔を見て、頭が真っ白になって。それで──」
彼女は寮を飛び出した。ライバルに己が苦悩を、見せまいがために。
「初めは本当に、一夜だけのつもりだったの。ウオッカは寮に荷物を置いていただけで、宿は別にあったから。アイツが、知らずのうちに飛行機に乗ってくれるまでの、辛抱。そのうちに、絶対、トレーナーは、連絡をくれる、って」
あとのことは、言われなくとも察しが付く。
1日目、僕が寝てしまったあとも、彼女はスマホの前で連絡を待ち続けた。電話はかかってこなかった。
2日目、僕が外出している間、おそらくここで初めて彼女に連絡が入る。相手はトレーナーではなく、学園か、寮か。彼女は失望し、恐怖して、スマホを僕に預けた。
そして今日、3日目。スマホは未だに、お菓子の箱の中。
なぜ待つばかりで自ら電話を掛けないのか。その答えを、僕はすでに持っている。
──『僕は彼女の電話番号すら知らない』
湧き上がるのは、同情の念。
本当に言葉通り、スカーレットは大丈夫だと信じ切っていたのだ。
日常が永遠にあるものと疑わず、備えを怠ったのだ。常に共にいたから、必要も無かったのだ。
ちょうど3年前に僕が味わった後悔を、彼女は無言のうちに噛み締めていた。
そうなると、2日目の彼女の辛抱を打ち砕いたのは、僕なのかもしれない。
彼女はトレーナーの電話番号を知らない。ゆえに、知らない番号──学園以外の番号からの電話に出ることが、トレーナーからの着信を唯一受け取る方法だった。
学園からの連絡の前か後か。ともかく僕からの電話に出た彼女は、希望を与えられた上で奪われた形になる訳だ。
僕がいたって、なんにもならない。彼女は孤独のままで、今日までを過ごしたのだ。無二の相棒も、親友も失って、たった独りで。
すすり泣く声を背に、僕は無表情でいた。
振り向いて抱きしめてやることは、距離の上では簡単だ。求められてやいないことを、冷え切った頭で理解していた。
「愛想、尽かされちゃったのかな」
ただ、ポツリと零したその言葉だけは、聞き捨てならなかった。
「1番1番って、口だけで。何か気に食わないことがあったら、すぐ、人に当たって。少し上手くいったら調子に乗って、また、失敗しちゃって」
昨日聞いた、出会いの話が蘇る。
──『ほんとは……”1番”になるだなんて、アタシにはっ──』
──『スカーレット!!』
エアグルーヴが語気を荒らげ彼女の弱音を止めたのは、きっと、言葉の終わりが、彼女の終わりであるだからだ。
信じるという行いは、何より難しい。こと自分についてでさえも、疑念を抱き始めてしまえば、止まらない。彼女に何より必要だったのは自分の夢を肯定してくれる他人で、それがトレーナーだった。
いま、彼女は拠り所を失い、再び呪いの言葉を吐こうとしていた。自分自身にかける、一生解けない呪いを、そうとは知らずに。
──『言うな。その先を、口にしてはいけない。戻れなくなるぞ』
この場にエアグルーヴは、いない。
──『君は“普通”じゃない、“1番”のウマ娘だ』
トレーナーも、いない。
僕が、止めなければいけなかった。
僕は、言葉を発してはいけなかった。
だから。
「失望されたのかも。トレーナーも、きっと、見切りをつけて、他の子に──え?」
それは、いつかの日の繰り返し。
自虐に満ちた「に」で、不自然に彼女の息遣いが切り上げられる。邪魔をしたのは、間抜けなアルミの金属音。正直言って、期待していた音量の50分の1も出なかったし、指の関節がめちゃくちゃ痛い。
何をしたかと言えば単純で。ベッドの下にあったお菓子の缶を、渾身の力で殴りつけただけのことである。
「……起きてる?」
「すーすーすー……んーむにゃむにゃ……みんな死ねぇー」
「あーはいはい、寝てたけど寝相で腕を振り回して、たまたま先にあった物をぶん殴ったと──そんなわけあるか!」
まあ、無理しかないと思う。
体裁を保とうとしてるんだ、空気読んで合わせてくれよ。寝相であることの証明として、もう一回拳を振り上げるも、温かな掌に包まれ、止まる。
「ばか」
シンプルな罵倒。二重の意味で返す言葉がない。
「ばか!」
強勢が付いた。寝てる人に向けてその声量はどうかと思うんだけど。
「ほんとに、バカよ、アンタ。昔っから、虚勢、ばっかで……!」
──「君に言われちゃおしまいだと思う」「バカとばっか、良いダジャレですね」
クソほどどうでもいい返しが、ぱっと浮かんでは弾けて消える。しょせん泡沫、シャボン玉。その場しのぎの僕のおべんちゃらは、背後で降りしきる雨にすこぶる無力だった。
けど、その雨は、天気雨だった。
感情が決壊した、けれど温かな涙で、数分も経たぬうちにあがってしまう、そんな雨。
すうすうと寝息が聞こえて、安堵する。昨日のような台風の中にひとり、置き去りにするような真似をしなくて済んだのだと──。
「……ほどいたら、起こすよな……手汗、気になってきた」
てるてる坊主、てるてる坊主、明日天気にしておくれ。
それはそれとして右手の汗腺、今日くらいは止まっておくれ。
────
……。
……。
……。
なんでもない日の、放課後のこと。
僕がスカーレットの元へ向かうのは、一応は『忘れ物』という建前のもとであり、一度教室を出る必要があった。つまり、下校する振りして「あ、忘れ物してたわ」というわけである。振り返ると回りくどすぎる。
さて、ポーズとはいえ外に出る。外履きを取り出すべく手を突っ込んで、なにか異物に触れる。平らで、カサカサして。紙であるとすぐに分かった。ひっつかんで眼前まで持ってくると、真っ先に目に入るのはハート型のシール。
これ、もしかしてもしかするのでは。
内心ドキドキしながら、周りを見て、誰もいないことを確認してから、封を開け──。
「なにその便箋」
丁度読み終わったあたりで背中から声がかかって、たぶん30センチくらい飛び跳ねた。振り返れば、真っ赤なランドセルを背負ったスカーレットの姿。さして興味なさそうに、僕の右手を見つめている。
今一番会いたくない人の到来に、僕は内心で舌打ちする。
ヘイヘイヘーイ、モテる男は辛いね、と陽気に振り返る。視線を合わせた途端、彼女は露骨に顔をしかめる。辛い。
「実はだねぇ、恋文を貰ってしまったのだよ」
「噓ね」
さらに辛い。
これまでに無く淡白に、彼女は切って捨てた。
「イヤ酷くない? モテなさそうってのは分かるけどもさ、一縷の望みくらい持ってもいーじゃんか」
「酷いのは、アンタの顔」
それこそ酷い台詞だ──と、彼女はずいと手鏡を突きつける。
「ラブレターを貰った人間が、そんな泣きそうな顔、するわけないでしょ」
僕は一つ、誤解をしていた。彼女の優等生エミュは確かにフリだが、その正義感は本物であるということを知らなかったのだ。
怒りに満ち満ちた彼女は僕と距離を縮めると、有無を言わさず右手を突き出す。
「見せなさい、その手紙。書いたやつ、とっちめてやるから」
「いやほんとに、ほんとにラブレターなんだって。マジで。だからほら、こんなところで恵まれた身体能力発揮しなくていいから。大人げないとか思わんのか!」
渡す気がないと見た彼女は実力行使。体格差と種族の差をフルに使って手紙を奪う。怪我させまいって加減は感じるけど、勝てるわけないじゃんこんなの。
さて下手人は勝ち誇るでもなくシールを剝がし、中身を見て──ぴしりと固まった。
「……だから言ったのに」
手紙の中身は、本当にラブレターだったのだ。ただし差出人は書かれていないし、おまけにスカーレット宛て。
なんで僕の下駄箱に入れるんだよ。
「あ、あ、アンタ、これ……!」
「なんだよ。僕は正直に言ったんだからな。勝手にイジメかなんかと勘違いした君が悪いんだぜ」
スカーレットはそれはそれは頭の先から足首まで真っ赤にして狼狽していた。僕はそれを冷めた目で見つめる。
面白くなかった。自分自身、男として見られていないことはとっくのとうに気付いていたはずなのに、こうもあからさまに庇護対象として扱われたことに、腹が立っていたのだ。
だから、彼女が僕の反応を見て落ち着きを取り戻したことにも、その割に頬が真っ赤なままなことにも、気づけなかった。
「アンタは、今日は噓をついていないのね? ラブレターを、
「正確には貰ったのは君だけどね。さっきから言ってるだろ」
「……そう」
質問の意図が分からず、間抜けな返し。
ちょっと声のトーンを落として、スカートのポケットに手紙をそっとしまう。
「届けてくれて、ありがと」
「……それ、どうするつもり?」
「なに、気になるの?」
「ま、一応ね」
後頭部に腕を組んで強がった僕に、彼女は優しい苦笑を返す。
「一応取っておくけど、名乗り出てきても断るつもり。告白なら最低限、直接言ってくれないと。百歩譲って手紙を書くとしても、面と向かって渡してくるくらいの勇気が欲しいわね」
都合のいい空想とともに、この日のことを偶に思い出す。彼女の赤面の理由。要領を得ない質問。それらが、「手紙を書いたのが僕ではないか」という疑念から、生まれたものであるとしたら──。
当時からそんな都合のいい頭をしていたとして、問いただすことは出来なかっただろうけど、ね。