ダスカに片想いして結局告白すらできず卒業を迎えたクラスメイトのモブになりたい人生だった 作:石焼ビビンぱ
目を開いて最初に覚えた感情は、寂寥だった。
永遠に続くと思っていた憧れの人の時間は、卒業とともに終わりを迎えて。そこから先は、彩に欠ける、灰色の日々。
感光器は入れる光が強すぎると焼き切れてしまって、二度と役目を果たさない。
僕の目はそんな感じだった。初めに見た光が強すぎて、新たな恋を始めることが出来なかった。
「……あ、やっと起きたのね。これでアタシも動けるわ。ほら、手、離して」
焦がれてやまない人の声。太陽みたいに眩しい貴女。
もしかしてまだ、夢の中?
「ふあ……おはよ。ずいぶんと早いんだねえ。そういや、いつも教室に一番乗りだったねえ」
「そう言うアンタは寝坊助だったわね。ここ2日、アタシの方が起きるの遅かったから忘れてたわ。ほら、いつまで寝ぼけてんのよ」
ぶんぶんと右手を揺すられて、追従して体が揺れる。
て、て、てって語感がしつこいな──って、手?
「…………」
「さんざ人のこと揶揄っておいてなんでこういう時だけいっちょ前に恥ずかしがるのよ!?」
現状を自覚して上がった体温が、ロマンチックと程遠くぎゃあぎゃあ騒ぐスカーレットのおかげでちょっとマシになる。新鮮な驚きもあった。なんと彼女にとって僕はからかい上手のなんたらさんにあたるらしい──いや待て、それだと昨日のがおかしいことになるぞ。虚勢ばっかだって言われたばかりだ。
「……なによ、人の顔じろじろ見て」
でもまあ、それは僕も同じことだ。スカーレットのことを『我の強いおしとやかな負けず嫌いの優等生』と思っている僕と、なんら変わらない。
裏を知りながら、提示した仮面を尊重する気遣い。それが嬉しくて、頬が緩む。
それはそれとして、彼女の顔から、繋がれたままの右手に視線を移して。
「……ごめん。でも、足りないんだ、手」
「んなっ……アンタね、アタシ1時間前からずーっとこの姿勢だったんだからね。起きるまで待っただけ有難いと思いなさいよ。第一、なんでアンタなんかと──」
「そこを、なんとか。友達を助けると思ってさ。手が足りなくて、死にそうなんだ」
「……気持ち悪いわよ、アンタ。まあ、そこまで言うなら、あと30分くらいなら」
尊厳を犠牲に、仮面を被る。名残惜しく思う気持ちを振り払って、指を解いて。
「ありがと。今日はお客が来るからさ、掃除しなきゃいけなくて。人手が足りなくて、困ってたんだ」
……怒られたのは、言うまでもない。
どれだけ人が好いのか、朝ご飯を食べた後しばらくして始めた掃除を、彼女は普通に手伝ってくれた。おまけに手際がめちゃくちゃ良い。本当に実働時間30分ほどで掃除が終わり、僕は廊下に呼びだされ、流しで説教を受けている。
「金たわしで強引に落とそうとしたでしょう。ここ、傷がついてるわ。こういうのは力づくじゃダメなの。浮いてくるまで待たないと」
ステンレスに纏わりついていた石鹼カスと錆がものの見事に消滅し、指でこすってみればキュッキュと音が鳴る。劇的にビフォーでアフターな曲を流したい。
鏡の代わりが出来るほどクリアになった銀色に、得意げなスカーレットの顔が映る。隣の僕は、苦笑気味。
「まさかここまでキレイになるとは。恐れ多くて使える気がしないよ」
「好きなように使いなさいよ。汚れたらまたアタシが──」
言い淀んで、ハッとする。
「……アンタが掃除すればいいんだから。そのために今、教えてるんじゃない」
それは、宣言だった。「ずっと居る訳じゃない」「そのうち出て行く」という、焦りと先延ばしの言葉尻。
彼女はそこに具体的な日時を付すべきで、僕はそれを問うべきで。
さっきから、夢の中にいるみたいだ。
時間の流れがいやに速い。一生残しておきたい思い出が、瞬くうちに過ぎていく。
別に死ぬわけじゃないけど、こういうのを、走馬灯って言うのかもしれないな。
「──懐かしい物が出てきたんだ」
水場掃除を終え、ちゃぶ台を囲んで、お互いの視線は1冊の本へ向かっていた。
「林間学校なんてのもあったわねー。見てこれ、ナイトウォークのアンタ、すっごいへっぴり腰」
「逆に君はよく繕えてるな。内心恐怖でガクガクだっただろうに。すぐ後ろを歩いていたから、尻尾がビシバシ当たってなかなか痛──コップに当たろうとするのやめよう、な?」
本棚で埃を被っていた、卒業アルバム。掃除の合間に気を取られて、一仕事終えて戻ってきたスカーレットにどやされた──のはさておき、ぱらぱらとページをめくる途中、僕は重要な約束を思い出したのだ。
ペンを渡しつつ、人差し指を立てて僕は言う。
「約束、果たさないとね。ペンとか、準備はいい?」
「死ぬほど似てないわよ」
げんなりした顔で、今しがた渡した棒が額をつつく。「それで、約束って?」
アルバムの巻末には、互いにメッセージを書き込むページがある。当時の僕はなけなしの勇気を振り絞り、彼女にひとこと書いてもらったのだ。無論、これまで積み上げた言い訳をフルに使って。
──『約束の日に、サインを書くわ!』
「なんだかおかしいわね。お互い、片方覚えて、片方忘れていたわ」
油性ペンが厚紙の上を軽快に走る。その横顔を眺めて、僕は感傷に浸っていた。
嘘から出たまこと、瓢箪から駒。記者になると嘯いただけで、彼女は律儀にも約束を守り、その輝きに見合わない端役の控え室に紛れ込んでしまった。
終わらせなくちゃ、いけない。
「──約束はこの通り、双方で守るものだ。片方が覚えているのなら、片方が思い出させて。そうして、お互いに守る努力をして、成立させるものだ」
急に気取って改まった言い方をしたものだから、スカーレットはこちらを向いて、困惑顔。続く言葉でその瞳に動揺が広がったのは、今度こそ、少しは仲良くなれたからだろうか。
「君は、約束を守れていない。今すぐ、ここを出て行くべきだ」
──『一緒に”1番”を目指そう』
スカーレットとトレーナーは、そんな約束を交わした。正確に言えばこれはトレーナーの台詞であって、彼女がそう言った訳ではないが、些末な違いだ。
この約束には、期限がない。
すなわち、一度2着になった程度で、破棄していいものじゃない。
「『ほとぼりが冷めたなら』なんて言ったけど、君だって分かってるはずだ。そんなことはありえない。どこかで向き合わなくちゃ、ズルズルと引きずるだけ」
ベッドの下から正解の箱を取り出せば、見計らったようにバイブ音。彼女はびくりと身をすくませる。
「君にとって、“1番”はなんだ」
──『1着を取ることか!? じゃあ勝てるレースだけ出ればいい!』
「みんなの記憶に残る1番のウマ娘。なら、なおさらこんなところにいるべきじゃない。辺鄙な環境で1番を取ることは、君にとっちゃ、何の慰めにもならないのだから」
「──さっきから言ってること、全部アタシから聞いただけじゃない! アンタは何も知らないの! 偉そうに、分かったようなこと言わないで!!」
勝手な言い分に耐えかね爆発した彼女の反論──それは、本当にそうだと思う。
彼女には友がいて、何よりも、相棒がいた。僕の説得は、彼女の経験を不躾に引っ張り起こしているに過ぎない。
ウオッカとトレーナー。それからトレセン学園ではぐくんだ絆があれば、こんなことせずとも失敗からも立ち直れるはずだった。
たったひとつのボタンの掛け違い。それも、本来であればすぐに解消されたはずのものが、僕の気まぐれで、ほったらかしにされてしまった。
「約束を破棄するのなら、それは話し合いによってであるべきだ。一方的に諦めるのは、信頼を裏切る行為にあたる」
「……昨日、言ったでしょ。トレーナーは、丸一日待っても、連絡のひとつもくれなかったのよ! アタシが、負けたから! 見捨てられ──」
「君のトレーナーは、『どこにも行かない』」
「……っ……だから……!」
分かったようなことを言うなと、燃える瞳が訴える。
あの日と違って、きちんと口が動いた。それが、寂しくて、嬉しかった。
「君のトレーナーは、契約解除ごときで諦めるような人じゃない」
沈黙が場を支配する。
先に動き出したのは、スカーレット。
ひどく苛立った表情で立ち上がり、卒業アルバムを僕の胸に押し付ける。
「……言われなくても、出て行くわよ。3日間、世話になったわね」
律儀なことだ、と心の底から感心してしまう。自身の行動を否定されても、物に当たるでもなく、人に当たるでもなく、感情と切り離して礼を言う。
でも、僕はからかい上手らしいから、それじゃあちょっと面白くない。
「忘れ物、してるぞ」
お菓子の箱を叩いて呼び止めると、彼女は眉をひそめ、心底イヤそうにUターンして、右手を伸ばす。掌にスマホを落とす瞬間、思い出したように、僕は口にした。
「そういや、シンプルでオシャレなスマホだな。裏面のバイクのプリントが特に良い。今更だけど、趣味が合いそうだよ」
そうそう、その驚いた顔が見たかったんだ。追撃に、人差し指を自分の顎に乗せ、とぼけた表情で。
「あれ──君の名前、ウオッカちゃんだったっけ?」
────
トレーナーは契約解除を知らされたその日に、すでにスカーレットに連絡していた。それを受け取ったのが、スカーレットのスマートフォンを持ったウオッカ。
話を聞く限り、ウオッカは他人からの連絡にさほど頓着しないタイプだ。空港で山ほど通知が来ていることに気付いていても中身を見ることすらしなかったという話から、渡航前に画面を開かないどころか、現地到着後にSIMカードの調達を急がなかったとしても不思議はない。
スカーレットは、スマホの表しか見ていなかった。2日目の肝心の『トレーナーからの連絡』を、番号だけ見て学園からのものと勘違いし、しでかしたことの大きさに恐怖した。スカーレットの番号すら持っていなかったトレーナーがウオッカの番号を持っていなかったとしても、責めるべきではあるまい──結局、スカーレットの言葉に従順でいた僕も、入れ違いに気付くには至らず。
「そういうワケだ。全部僕らの勘違い。君があれだけ欲していた話し合いを、トレーナーさんもずっと待ってるんだ。行く当てが無いのなら、まずは彼のところをお勧めするよ」
「……無理よ。アタシ、今更どんな顔して会えばいいか」
「そう言うと思って、呼んじゃった。そろそろ来るよ。掃除してまで待った、お客様」
「な」
直後、彼女の文句をかき消すように、都合よく呼び鈴が鳴る。
スカーレットはドアの方を向いて耳をぴくりと動かし、それから僕の方へ振り返る。
僕は箱から手鏡を取り出して、伏せて彼女に手渡した。
「ほら、鏡を見てごらんよ。パートナーに会いに行くのに、怒った顔や泣いてる顔じゃ勿体ない。きっちり笑顔でいなくちゃね」
紫色の取っ手を持って、鏡を覗き込んだ彼女は──それはそれは気の抜けた笑みで、ため息をついた。
「……もうちょっと場所があるでしょ」
「悪いね。手に握らせるなんてキザな真似、僕には出来そうに無かったんだ」
「でしょうね。手握ったくらいで、あんだけ動揺するんだもの」
恨みがましくこちらを睨むスカーレット。全然怖くない。頭のてっぺんにお子様ランチの1着旗がついている状況では、何をやったって間抜けに映るってものだ。
実のところ、スカーレットのトレーナーへ彼女を引き渡す計画は、昨日のうちから決めていたことだ。そのためにガイゼル髭の同級生に頼んで、フジキセキをファミレスに呼び出した。スマホの入れ違いの可能性についても、この時点で彼女から聞いたことだ。
身柄を預かっていると馬鹿正直に伝えた上で、引き渡しを1日待って欲しいこと、また引き渡しにはトレーナーを連れてきて欲しいことを伝えると、フジキセキは愉快そうに微笑んだあとで、交換条件を提示してきたのだ。
──『普通なら、今すぐに引き渡せと迫るところなんだけど。泣き顔のままじゃ返せないっていうのは、なかなか良い文句だね。気に入ったよ』
──『ただ、1日待つ代わりに、ひとつマジックをやってほしいんだ』
まさかそのためだけにお子様ランチを頼むとは思わなかった。茶目っ気に溢れた王子様といった感じで、人気が出るのも納得である。
現実に思考を戻すと、スカーレットが何やら百面相をしていた。申し訳なさそうな顔、安堵した顔、嬉しそうな顔、怒った顔──総合すると、『複雑そうな顔』。
「紛らわしいし、回りくどいのよ、アンタ」
ぐうの音も出ない。卒業アルバムを置き両手を上げて降参の意を示すと、スカーレットは腰に手を当て、空いた僕の胸にビシッと人差し指。
「アタシは『みんなの1番』になる。約束よ」
「散々聞いたよ。耳にタコが出来た」
「この『みんな』には、アンタも入ってる」
茶々を無視して、彼女は続ける。
「アンタがさっきみたいな回りくどい言い方じゃなくて、言葉で、直接。『君が1番のウマ娘だ』って、思わず言っちゃうような、そんな“1番”になってみせる。精々、覚悟しておきなさい」
──『辺鄙な環境で1番を取ることは、君にとって何の慰めにもなりやしない』
「……それ、素面で言える方が少ないと思うけどな」
できる限り遠回しに示した親愛に気付かれていたことが気恥ずかしくて、口を尖らせ不平を言えば、彼女は肩をすくめて。
「少なくともトレーナーは言ってきたわ。会って2日で」
「天然ジゴロと一緒にすんな」
半ば蹴り飛ばす勢いで、玄関までなだれ込む。手を振ると、振り返して。スカーレットは扉の外へ出る。彼女が十全に輝ける環境へと、帰還を果たす。
それがちょっと悔しくて、ドアが閉まり切る直前、ぼそりと僕は呟いた。
「ああ、そうだ。約束の話だけど、守れるか分からないや。あんまりにも達成が遅いと、僕は話す舌を持たなくなるよ」
背中で響く不平は無視。
さようなら、スカーレット。もうこんなとこ来るなよ。
さて、玄関ドアに背を向けて、廊下に視線を向ければ、後輩がジト目でこっちを見ていた。ジト目というかジドメ゛である。信じがたい汚物を見るような目だ。鳥の糞が車のフロントガラスに落ちた時でも、もうちょっとまともな顔をするだろう。
「さて、あとは頼んだぜ、後輩」
「うー…………キッモ。なんすか『鏡を見てごらんよ』て。『ただしイケメンに限る』って言葉知ってます? 先輩の方こそ鏡見るべきっす寒気が止まらねえっすマジであ、ダメだ吐き気がおろろろろろろろろ」
仕事をしてもらうため、スカーレットにバレないように風呂場に潜伏してもらっていた腹いせもあるのだろう、酷い言い草……そのせいだよな?
しばらく吐き真似をした後で、彼女はすっくと立ち上がる。
「ただまあ、いつまでも引きずられても困りますからね。今回ばかりは協力したりますよ。ケーキ3個、いいっすよね」
「おー、ついでに今買ってくるわ。チーズとバスクとベイクドでいいか」
「それで良いと思ってんなら良いんじゃないっすか。先輩の良心にお任せするっす」
玄関ドアを開けても、スカーレットはもういない。トレーナーも、もういない。
夢のようなふわふわした心地のまま、夕焼け小焼けをてくてく歩く。不良のたむろするコンビニを横目に、バイト先のファミレスを横目に、たどり着いたのは喫茶店。初めてで勝手なんか分からないけど、店員さんが親切で、わざわざ窓際の席に案内してくれた。
喫茶店の窓から、外を覗く。早々に落ちかけている1月の夕日が、陽炎みたいに揺らめいて見えた。
後輩を家に置いたのは、彼女を家主と誤認させるためだ。
行き違いがあったとはいえ、スカーレットが(ほぼ)無断で門限を破ったことに変わりはない。となれば罰は確実にあるとして、問題はその重さ。
ここには、行動の目的が加味される。自主トレーニングのために脱走を繰り返していたスカーレットは、エアグルーヴに厳重注意を受けたという話だが、口頭で済んでるあたり、まだぬるい。
さて、思い出してほしい。ウマ娘には女性しかしない。そりゃ「娘」ってんだからそれはそうなのだが──全寮制の女子校で、男性の家に無断で泊まったよ、となったら、どうなる?
無断外泊の時点でダメだと言われたらどうしようもないが、同性の方がダメージが低いのは間違いない。
正直なところ、勿体ないと思っている自分が、今も心のどこかにいる。
自分の感傷を慰めるだけの手頃な輝きの夕日として、何も教えず、家の中にずっと閉じ込めてしまいたいと思う気持ちが。
『彼』に聞かれたらブン殴られそうな後ろ暗い想いが、僕の心に、確かにある。
「……重たいな、信頼って」
でも。
あの夜彼女が示した信頼を、僕はどうしても裏切れなかった。
これ以上、僕は動けない。善良な小市民の枠を越えられない。
脇役らしく、ちょこっと泣いた。初めて飲んだブラックは、そんな中でも苦かった。
家に帰ると、後輩が顔面蒼白で仰向けに倒れていた。
駆け寄ると、「すみません、任務を果たせなかったのでケーキはいらないっす」と律儀なことを言い気絶。握られていた手紙には、それはそれは達者な毛筆で、
「3日後の正午、トレセン学園の正門で待つ エアグルーヴ」
──殺される奴ですやん。
────
日本に知らぬ者はいないとされる超名門、トレセン学園。
その環境は当然入学難易度に見合ったもので、隅々まで手入れの行き届いた学び舎が、今日も優れたウマ娘を輩出する。
「隅々まで手入れの行き届いた」というのは、人通りの最も多い正門でも例外ではなく、砂埃と風雨にさらされ土足に踏み荒らされているはずのコンクリートが、綺麗なグレーを保っている。
なぜそんなとこを見てるって、そりゃあ土下座しているからさ。
「すいませんでしたぁぁぁぁぁっッッ!!!」
綺麗な学び舎に汚い叫び声が響き、すわ何事かと学生たちの視線が飛び交う。
注目を集める存在は2人。
片方は僕、もう片方は、正面におわします、『女帝』である。腕を組んで仁王立ちで、凄まじい覇気を放っている。こりゃ後輩が気絶するのも納得だ。これほどの覇王色の使い手、世はまさに大ウマ娘時代──
「まず、顔を上げろ。……それともなんだ、貴様の望みは、私に恥をかかせることなのか?」
あれ、意外と優しい。
「そもそも、私は貴様に礼を言うべき立場だ」
エアグルーヴと並んで2人で学内を歩く。数日前の自分にそんな未来を話しても、きっと信じやしないだろう。東京ドーム換算が出来そうな広さのグラウンドを横目に、そんなことを思う。
「貴様がフジキセキへ通報したから、我々は捜索願を出さずに済んだ。いくら寛大な理事長のもと自由な校風を謳っているとはいえ、私的な理由での失踪で公権力に頼ったとなれば、庇いきれん。貴様の行動は、スカーレットの選手生命を守ったのだ」
「……その口ぶりだと、まだチャンスがあるとみて良いので? 彼女の犯した規則違反は、割とシャレにならないものだと思いますが」
エアグルーヴは意外そうに目を丸めた後で、小さく頷く。
「そうだな。夜間の無断外出、3日間の外泊、それに伴う門限の無視。携帯の入れ違いという特殊な事情を重んじた理事長の決定で、規則よりかなり軽くして内々に処分してやろうというのに。まして契約解除となったトレーナーと再契約をしたい、などと。厚顔極まっているよ」
『外泊』という一般的なワードでとどまっているのは、恐らく僕への気遣いなのだろう──にしても大きく出たな。この破格の条件から追加要求とか、心臓に毛が生えてないと出来ないぞ。
「我々は一つの条件を出した。学園の誇るエース級ウマ娘と並走して、トレーナー共々もう一度価値を示して見せろ、とな」
「なるほど、それが僕の呼ばれた理由ってわけですか。……じゃあなんで後輩は泡吹いて倒れてたんでしょう。おまけにあんな果たし状みたいな手紙まで書いて、内心ビクビクだったんですよ」
「……? いや、私は口頭で伝言を残しただけだが。3日後に処遇を決めるレースを行うから、都合が合えば来て欲しいと。まさか知らずに来ていたのか?」
あの野郎。
いつか痛い目見せてやる。
「……苦労しているのだな」
同族を哀れむような視線が辛い。じゃじゃ馬な同僚が彼女にもいるのだろうか。
話し込んでいるうち、いつの間にやら目的地に着いていたようで、エアグルーヴが足を止め、木で出来た柵の前で居ずまいを正す。
僕も倣って立ち止まり、手持ち無沙汰で柵に体重をかけ──出入り口の部分であったので思いっきり前に開いた。木の軋む音と共に重心が前に行き、盛大に足音を立ててしまった。
ジャージに身を包んだ2人の視線が、一斉にこちらを向く。
スカーレットの瞳に射抜かれて、吹っ切ったはずの感情が蘇る。ぶんぶんと手を振る彼女に、体温がやたら上がってしまって、手首から上だけ振って応じた。
ウオッカの瞳に射殺されて、体温がガンガン下がってしまって、僕は両手を背中に隠した。冷や汗が流れる。めっちゃ威嚇されてるんだけど。こっわ……ってウオッカ……ウオッカ!?
「並走の相手って、彼女ですか。武者修行に行ったはずじゃあ……」
「その予定だったさ。ただ、貴様も知る通り、スカーレットの携帯を持って行ったことで、騒動の内容が伝わってしまってな。不甲斐ない姿で走り続けるくらいなら、オレが引導を渡してやる、と、一時帰国だ」
僕はただただ、言葉を失うばかりだった。いくつか言葉を交わして、スタートの姿勢を取る2人──恩を着せるでもなく、過度に恐縮するでもなく。互いの存在が不可欠であるという認識が、前提になっている関係性。
これが、ライバル。
「貴様は、スカーレットに似ているな」
スタートの合図と同時、エアグルーヴはそんなことを言う。
「えっ……そんなこと言われたの初めてです、アタシ」
「……物真似は全く似ていないな。そういうことではない、目標への態度の話だ」
やる気が下がったとでも言いたげな顔で、彼女は腕を組んだまま、手首を持ち上げ人差し指を立てる。スカーレットとは少し違うポーズで……あ、これ説教の姿勢か。
「どんな形であれ、向上心があるのは望ましい。ただ、突き上げる義務感に呑まれて、人間的な生活の区切りを忘れるのは感心しない、ということだ」
彼女の言っていることは単純で、寝食を忘れるほど熱中するのはいいけど寝食ちゃんと摂れよ、ってことである。僕には当たらない。
そんな思考が表に出ていたのか、エアグルーヴに横目でじろりと睨まれる。
「貴様はおそらく、私に呼ばれた真の意味を探っていたのだろう。『スカーレットの処遇を決めるレースだから』なんてはずはない、裏の理由があるのだと。それこそ、節目をおろそかにしている証拠だ」
そうは言うけど、勘繰らざるを得ないほどに処分が軽いのがいけないんだと思うんだよね。もう2度と逢えないだろうって、覚悟を決めていたのが馬鹿みたいじゃんか。
要らんこと言って帳消しになったらいけないから、口には出さないけど。
「いらない勘繰りをしたのは謝りますがね、僕は彼女とは全く似ていませんよ。バレンタインの当日に思い当たって、買い物ついでにその場で買ったチョコ渡すようなやつと一緒にしないでください」
同級生時代はきっちり準備していたあたり、優先順位が変わったのだろう。なお後輩のズボラエピソードを聞いてしまったエアグルーヴの微妙な表情は無視。許せスカーレット。
「僕は彼女ほど視野狭窄じゃありません。苦難を乗り越え他を犠牲に達成したい目標なんて、持ち合わせちゃいないのです」
スカーレットは今でこそトレーナーという目標を共有した相棒を手にしたが、もとより独りであろうと、性根は今と変わらない。『1番じゃなきゃ嫌だ』という子供じみたこだわりを持った自分を愛し、体現するためにはどんな犠牲も厭わない──妥協を覚えた自分には、狂おしいほどに眩しく見えた。
「彼女ほど理想主義でもありません。矛盾する約束は、片方諦めるのが道理です」
彼女が小学校時代の取るに足らない約束を思い出しさえしなければ、逃避先として僕の家を選ぶことは無かっただろう。ともすれば、ウオッカとの入れ違いに賭けて、寮にとんぼ返りする選択も生まれたかもしれない。なんでもそつなくこなす優等生を自称する癖して、どこまでも誠実で泥臭い姿勢が、綺麗で、綺麗で。
でも、両方とも横顔で。
こっちを向け、って言いたかったんだ。
「そういうわけで、僕と彼女は似てません。女帝の慧眼も、案外節穴なのかもしれませんね?」
ひたすらに無礼な台詞とともに薄ら笑いを浮かべてみれば、エアグルーヴは口に手を当て、上品に笑い出す。
「何がおかしいんです」
「……いや、本当に似ているなと思ったんだ」
「実はだな、私は貴様らの別れ際の言葉を偶々聞いてしまったんだ。なにぶん、ウマ娘は聴覚に優れるものでな──ああ、非難は受け付けないぞ。先の無礼で帳消しだ」
何が琴線に触れたのか、上機嫌のまま彼女は語る。
「スカーレットは貴様と約束を交わした。貴様の口から直接褒め言葉を吐かせる、と。これが2つ目の約束だ。
1つ目の約束は、それと矛盾するものだった。片方は諦めるのが道理。そう言いつつも貴様は、どちらかを捨てるのを拒み、祈りとともに約束を勝負へと変えた。その結果が、今の貴様なのではないか?」
試すような瞳に、目を逸らす。
「誇大妄想家って、よく言われません?」
「クリュティエの逸話の解釈で感心されたことはあるな。なに、的外れだったのなら先程のように笑い飛ばしてくれればいい。……ところで、乙名史記者が弟子を取ったと風のうわさで聞いたのだが、何か知らないか」
「へえ、未経験の高校生を見習いに取るだなんて、よほどの変人なんですねえ、その記者さん」
女王の慧眼は健在。こりゃ逆らわない方が賢明だ。
しらばっくれて、ペンを走らせる。
書き込む内容は、レースの行方。ここから始まる、彼と彼女の、二人三脚の快進撃。
幼少期、貴女の前で広げた風呂敷を、今更ながらに畳みます。
貴女との約束は、競争に変わりました。僕の口から褒めさせたいのなら、僕が一人前になるより早く、『みんなの1番』と呼べるくらいの、トップスターになっちゃってください。
少しでも遅れたなら、その時は。
記者として、存分に。文字の上で、2人纏めて褒めてやりますとも。
「……スカーレット、何か言いながらこっちに来てますね。ウマ娘は耳が良いそうですが、何と言っているのか分かりますか」
「それが答えだな。『アンタ先輩の前でなんてこと言ってくれちゃってんのよ』『おまけに散々バカにしてくれちゃって』『レースの途中だって聞こえてたんだからね』だと」
「……仲裁、期待しても?」
「記者は体力勝負らしい。励めよ」
弾かれるように、足を踏み出す。肩を怒らせ追ってくるスカーレット、困惑顔で静止しようとするウオッカ、それからスカーレットのトレーナー。彼ら彼女らの声を背に、僕は駆けだす。
一世一代の、全力疾走が始まった。