不幸な事故に見舞われた絵描きの少女が、もう一度夢を見るまでの話。

BOOTHで販売している短編集「翌/風星群」に収録されています。



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(あした)

 脳幹に灯った翼が私をここまで連れてきた。

 

 想像力は人を天使に変える。美しい神様のお膝元へ羽ばたかせる天使に。

 ヘリオスかイカロスか、飛び立った先でどうなるかはわからない。湧き上がるインスピレーションのままに筆を走らせ続けて自己を顧みない芸術の奴隷になるかもしれないし、魂を売って泡銭を稼ぐ小汚いアーティスト風情に落ちるかもしれない。

 それでも、私はここまで飛んだ。飛べた。それがとにかく誇らしい。

 

 国立大の美術学部三年生、秋。

 夢の個展を開いた。

 

「今更なんだけどさぁ、なんで朱鷺子(ときこ)って泣き顔しか描かないの?」

「……ほんっ、とに今更だよねそれ。公開三日目だよ? もう最終日なんだよ? 今言う?」

 

 同居人の詩歌(しいか)はニヤけた笑みを浮かべて「いやぁごめんごめん」とひと目見て明らかなほど濃密な謝意を表した。ほんのり頭を下げる彼女の膝にはギターが乗せられていて、それは私にはよくわからない箱やら、なんだかスイッチのついたボードやら、ツマミのついた機械やら、色々巡って最新型のパソコンに繋がっていた。

 私も私で彼女からアコースティックギターを借りて床に胡座をかき、ぽろぽろと拙く爪弾いている。

 

「コードもサマになってきたねぇ」

「やっとこさね」

 

 ここはどこかの画家先生が使っていた古いアトリエに手を入れたシェアハウスである。寝室はなし、リビングもなし、キッチンとシャワー室は申し訳程度。足元の画材だの機材だのを避けるためにハンモックで寝るような、アーティスト根性で建てられた家だった。家賃は折半してひとり8万くらい、印税などでなんとか払っている。

 このスタジオは2階で一番大きな部屋に彼女の機材を並べたもの。マックPCを中心にいくつかの機材を並べた環境はなんともスマートだ。足の踏み場がちゃんとあるあたり、1階をまるまる占拠する私の作業場とは大違い。

 

 慣れ親しんだアトリエで、私たちは祝杯を挙げていた。

 

 今にも吊りそうなFコードの手をなんとか保ちつつ、側に置いていたはちみつレモンのチューハイをちびちび啜る。優しい甘さと酩酊感を眉間の裏側に感じながら、私は親友の目を見返した。

 

「で、なに? 泣き顔ばっかりなのがなんでって?」

「そうそう。理由とかあんの?」

 

 彼女は相変わらずのニヤけ面だ。他の表情なんか取り繕ったよそ行きの微笑みか、大口開けたゲラ笑いか、あと、なんだ、酔って吐きそうだったりとかそんな感じ。

 泣きそうな顔は一度も見たことがなかった。

 

「……ほら、人生で人の泣き顔見ることって少ないでしょ? だからさ」

「……そんだけ? うっそだぁ」

 

 ほら、呆れたような苦笑。やっぱり笑っている。

 私は「いやいや、もうちょっと聞いてよ」と話を繋ぎながら、頭の中のコルクボードに彼女の表情を思いつく限り貼り付けていく。

 

「たとえばさ、道を歩いてる途中で花も葉もない梅の木を見かけたとするでしょ」

「梅ねえ……それで?」

「その何もない裸の枝を見て、『もし満開ならこんな感じなのかなぁ』って綺麗な梅の花をイメージするわけじゃん」

「なるほど? ……なるほど、してみる」

「月日は流れて、またその梅の木の前を通ったとする。そのとき梅は満開、季節を越えてお色直しも万全のその枝を見て、私はいつもこう思うんだ……実物はしょっぺー」

「風情とかさぁないの?」

「空想の中の方が綺麗なんだからしょうがないでしょ。泣き顔描いてるのもそういうことだよ」

「風情とかさぁー」

 

 彼女は同じ言葉を繰り返した。

 私もそう思わないではないけれど、でも、実物を美しく捉えられるなら画家なんて志さなかっただろう。だから適当に相槌を打って流した。

 

「……まあでも、笑顔の多い人生送ってりゃ知らない泣き顔は美化されるか。良いこった!」

「でしょ? 本当に泣き顔を見る機会なんて、永遠に来ないのが一番なんだから」

 

 そう言いながらも、脳裏に浮かんでいるのは個展に出した作品たちだった。

 彼女たちはみんなみんな別人だ。コンクールの客席で額を合わせて泣くふたりの少女。外そうとして指先に引っ掛けたままのシルバーリングを捨てられず目を伏せる女性。世紀末のように物であふれた床に転がって空っぽの表情に涙を伝わせる女性。

 服装だって当然違う。野暮ったいくらいきっちりと整えながらもリボンだけぎこちないセーラー服。飾り気はないが色の組み合わせに大人びた魅力のあるコート姿。しわくちゃのまま袖を通したブラウスと放り棄てられたジャケット。

 どれもこれも目の前の親友とは似ても似つかない格好をしている。

 

「モデルいないのに、よくもまああんだけ多彩に描き分けられるもんだよ。あたしにゃ無理」

「できなきゃダメでしょ、劇伴作家さん」

「ところが実のところさぁ、あれに似せろこれに寄せろって言われること多いんだわ。だもんで問題なーし」

「仕事上手だねぇ……」

「あっはは! その仕事上手なあたしがタダでレッスンしてんだから感謝してよね」

「はいはい」

 

 目を瞑って彼女の実像を遮断し、声色から描いた笑みを肴にチューハイをまた呷った。

 

 ――ああ、順風満帆だ。

 

 止まない追い風が翼を掬って、望むだけ遠くへ運んでくれる。

 私は天才だった。母の言いつけを守って、資質を磨くべく努力した。それを許される環境にも恵まれた。

 

「さて、FとBマイナーを押さえられるなら大体なんでも弾けるっしょ。流行りの曲いってみよう!」

「手本お願いね」

「あーい」

 

 左利きの彼女は、すぐ目の前までやってきて女の子座りをした。ギターを構えると鏡のようになる。

 私は少し近眼気味なので近くまで寄った。互いにかがめば額を合わせることとできそうなくらい側で、私は手元をよく見るために前屈みになる。

 

「進行はG()A()F(ファ)#、B()マイナーの繰り返しね」

「F#……マイナーにはならないの?」

「ドミナントの借用和音だねぇ。曲が単調にならないように、別のスケールから和音を持ってくるってわけ」

「へえ……メリハリは大事って話?」

「イエース。ま、頑張ろ」

 

 すべてが順風満帆だった。

 きっとなにもかもが上手くいく。このギターの練習も、明日からの卒業に向けた制作も、この部屋で過ごしていく作家としての生活も、すべて、きっと。

 

 そんなものはなんの根拠もない思い込みで――そして、揺り戻しはやってきた。

 

 バツン、バツンと。

 ふたつ音がした、気がする。

 

 一瞬。

 それから、熱。

 

「……ぁぁぁあああああああああっ!? い、ぁ、痛、あつ、ああぁぁあっ……!」

「朱鷺子!? うそ、なんで、弦換えたばっかなのに……!? 朱鷺子、朱鷺子! 落ち着いて、いま、救急車呼ぶからっ……!」

 

 切れた弦がふたつ、狙ったように私の目を裂いた。

 そんなタチの悪いジョークのような事故で、私の両目は潰れた。

 

 

 

 

 

 あれからしばらくのことは記憶にない。

 私にとってはせいぜい数時間後、実時間では四日が経過したらしい朝。目を覚ましてもなお暗闇の中にある病室で聞かされたのは、私がいかに不幸であるかという慰めのようなものだった。

 

 弦の先によって角膜が引き剥がされたこと。

 眼球そのものもかなり深刻なダメージを負ったこと。

 瞼の隙間に滑り込むように刺さったため、およそ最悪と言っていい状態にあること。

 

 快復の見込みはない、こと。

 

 目には相変わらず痛みがあるけれど、明晰夢でも見ているような感覚がそれをぼやけさせていた。

 だから、聞かされたすべてはどこか他人事のようだった。

 

「朱鷺子……あぁ、どうして、どうしたら……」

 

 私の手を取って何か言う母の言葉も、ひどくぼんやりとしていた。

 

 ――なぜなら、私は何も悲しんでいなかったのだ。

 

 絵を失くしても、景色を失くしても、どうせ私は実像を描いたことがない。

 きっと生きにくくなるだろうとは思うものの、諦めるにはちょうどいいと、ここがゴールでおしまいなのだと、簡単ではないけれど割り切れそうだった。

 それよりも気がかりがある。

 

「お母さん、詩歌には会った? 私の同居人の」

「……来てないわ」

「……そう」

 

 暗幕の垂れ下がった眼球の中に絵が浮かんだ。

 あの個展に置いたもののひとつ。作品番号19「舌打ちをする未亡人」。

 母のそっけない返事は、そんな声色をしていた。

 

 

 

 退屈に浸るまま数日経ったらしい。意識の隙間に白絵の具を流し込んだような時間感覚。部屋の明るさはわからず、この病室で嗅ぎ取れるはずのない埃っぽさと、冬の近付く肌寒さと、かすかなペトリコールが鼻の奥をくすぐっている。光を見落としてから、絵具漬けの脳はすっかり混乱しているようだった。

 

 詩歌に会いたい。私は手探り、足探りで病室をうろついた。転ばないようにゆっくり、ゆっくり、指先や爪先をあちこちに這わせる。本棚は案外冷たい。平らなはずの机は思いのほかでこぼこしている。テクスチャを剥がされた世界はひどく新鮮だった。これを詩歌に伝えられたらいいのに。

 

 人間の五感は想像以上に繊細で鮮明だ。暗幕を掛けたガラス玉には四次元的な色彩が絶えず投射され続けている。十一月の気温は淡い紫色をしていた。どこかで葉の擦れる桃色、風の走る焦げ茶色が淡く線を足し、冷たくも優しい景色を描いている。

 ぽっかりと空いた真ん中にひとりの姿が浮かんだ。紫の空に暗い風、泣き笑いを浮かべる少女――作品番号7「晩秋」が破けて、その向こうに景色が開いた。

 

 ふわりと浮いた魂が、あの子と出会った過去にまで飛んでいく。

 

 

 

 

 

 もしも太陽をモチーフに絵を描けと言われたら、私は迷いなく詩歌を題材に選ぶだろう。

 そして、彼女の面影なんて欠片もないブリーチした白髪だとか、痛いほど鮮やかなカラフルコーデだとか虚像を作り上げて、素知らぬ顔で月の裏側とでも名付けるに違いない。

 彼女はそんな子で、私はそんな女だった。

 

 一年生の頃。特になにを食べたいわけでもないのに大学のカフェテリアでうろうろしていた私に、彼女は後ろから声をかけてきた。

 

「よう、どうしたの。次の講義の課題でも失くした?」

 

 絵の題材を考えるための散歩だったけれど、私のしかめ面は相当に辛気臭かったらしい。振り返ると、ギターケースの似合わない真面目そうな少女が、大きな黒縁眼鏡の奥でニタニタと笑っていた。

 

 背負った楽器を見るに音楽学部生だろうから、少女というよりは女性といった方が適切ではあると思うものの、顔立ちはなんとも幼い。髪はどの学部でもかえって浮きそうなくらい飾り気のないショートボブで、服装もカラーシャツにスキニーパンツとシンプル。生徒会長か風紀委員長を務める中学生と言ったら通じそうな真面目な風貌だった。

 

 ただ一点、状況だけが胡散臭い。美術学部と音楽学部は同じキャンパスにあるが、食堂はそれぞれ別、しかもそれなりに離れている。そしてここは美術学部の食堂である。

 

 あまりに不審だったので、すわ財布でもスられたかと警戒した。彼女は不思議そうな顔をして首を傾げて「なんだ、困ってるわけじゃないんだねぇ」と笑みの質を変えて、私は自分の性根を恥ずかしく思った。

 

「へぇ、あたしと一緒だ。こっち来たことないからインスピレーション湧くかなぁ、って思って来たんだよ」

 

 自白するようにネタ探しのことを明かしたら、彼女はそう言って笑った。

 嬉しそうな彼女に尋ねる。

 

「んー、黒字かねぇ。アイデアは降ってこなかったけど、あんたにゃ出会えたし」

 

 気障なセリフに眉をひそめると、彼女はますます笑った。よく笑う人らしい。

 

「あんたは? ……そっか。それじゃ音楽学部の方はどう? 来たことないなら案内したげる!」

 

 彼女は私の返事も待たずに手を取った。

 強引な割に力加減は優しくて、歩幅は私より小さくて。振り解くにはあまりに温かい手だった。

 

「あたしは宇津井(うつい)詩歌(しいか)。あなたは?」

 

 問われて、そう、これは覚えている。

 

「……私は相生(あいおい)朱鷺子(ときこ)。美術学部の一年生」

「お? タメかな。よろしく!」

 

 朗らかな笑みを深めて、離した右手を改めて差し出される。

 

 誰かに名前を覚えてもらいたいと思ったのは、人生で初めてだった。

 

 母の勧めから始まって絵ばかり描いて生きてきた。誰かに興味を持ったことはほとんどなくて、小中高とクラスメイトの顔はさっぱり覚えていない。絵の題材にでもしていれば別だろうけれど、それにしたって作品としてしか記憶していないだろう。この眼球の中にあるものはすべて、すべて、創作の材料だと思いこみながら生きてきた。

 

 初めて、現実を惜しいと思った。

 

 その笑顔に、触れた温度に、季節境の冷えを拭う日差しを見た。

 美しい梅の木の、まだ蕾の残る梢に空想を花づける期待のような軽やかさ。

 

 空想は際限なく美しいから、こそ。

 青天井の美しさに負けない、雨も雲も跳ね除ける太陽であってほしいと、祈りすら。

 

 

 

 

 

 彼女は私をあちこちに連れ回した。北千住のコロッケ、白山の播磨坂、神保のコーヒー店、お茶の水の楽器街。興味のあるところもないところも、彼女の温かい手のまにまに。

 大学生活にも彼女の案内にも慣れてきたあるとき、大学の近くで空き家を見つけるや「ここに住もう」と言い出した。

 もちろん、住もうと言ってすぐ移れるわけではない。家賃とか管理はどこだとか生活していけるのかとかまごつく私の弱気を、彼女はけろりと笑い飛ばす。

 

「だって、絵描きたいでしょ? 場所ほしいじゃん。あたしもルームシェアって大義名分があれば大きい部屋に移れるからさぁ、色々と機材欲しかったんだよね」

 

 彼女はそんなことを言って、考えて、実行した。母に言われるがままに絵を始めて、より良い絵を描くこと、描いた絵が売れること、母に絵を認めてもらえることだけを考えていた私にとって、彼女の社会と折り合いをつけた自主自律ぶりは眩しく、違うレイヤーにある思考だった。

 

 蝋を塗りたくった羽のような声で、一緒に住みたいと私は応えた。

 

 見つけた空き家は似たような境遇の画家先生が住んでいたらしい元アトリエ。私の作業場を一階に作ろうと彼女は微笑んでいた。だから、じゃあ二階はあなたのスタジオになるねと続けたら、面映ゆそうにくしゃりとした。

 

 

 

 当然だけれど、実現させようとすれば先立つものが必要になる。既にひとかどの作曲家として身を立てていた詩歌はともかく、私もお金を稼ぐ必要がある。活かせそうな特技、つまりイラストなりデザインなりで小金を稼ごうとすると、立ちふさがる問題は私の母だった。

 

「あんたのお母さん、頑固だねぇ。もうすぐ二十歳だよ、娘の好きにさせてやりゃいいのに」

 

 憤慨する詩歌に私はなんと言ったのだったか。覚えていないけれど、たぶん、別にいいとかごめんとか、消極的なことを口にしたのだろう。それだけはわかる。

 

 ……私は、母に逆らうのが苦手だった。

 

 悪い人ではない。私と同じで絵を描いていた人。少しばかり視野が狭いだけで穏やかな女性だった。記憶に残っているのは神経質そうなしかめ面ばかりだけれど、それでも。

 

 思うに、天才とは他者の承認を得て初めてなれるものだ。幼い頃、かつて使っていたらしい道具を私に持たせて、名前も知らない賞に絵を出せと言われたあの日から私は天才になった。母が天才にした。だから憎めないでいた。

 

 その母は、絵で小銭を稼ぐなんて許さないと激高した。

 未熟者の恥知らず、絵をなんだと思っているんだ、そんな体たらくでうちの敷居を跨がせるものか――おおよそ、そんなことを言われたと思う。

 結局なにも解決しないまま、ほとんど逃げるように実家を出た。

 

「朱鷺子、大丈夫?」

 

 コンビニで買った肌着や歯磨き粉、適当に買って来た数枚の衣服だけ携えて彼女の部屋に向かう途中、彼女は私の顔を覗き込んだ。心配させないためか、淡い微笑で。

 

「ごめんね。あたし、余計なこと言った」

 

 そう断言できる彼女が、心底羨ましかった。

 私はただ、ただ母に従って生きてきた。才能も、今の学生としての立場も、与えられたものに過ぎなくて。

 決断と過ちを自分の責任として背負える同年代の少女が、目を焼くほど眩しく思えた。

 

「……詩歌」

「なぁに、朱鷺子」

「あなたと一緒に住みたい」

 

 母への愛憎も、己のコンプレックスも、見栄坊な絵画論も。

 なにもかも封蝋(ふうろう)で閉じこめて、私はいつかと同じ印璽(いんじ)()した。

 

 祈るように組んだ手に額を乗せて俯く、ピアノの前に座った幼い少女。楽器しか置けないような狭い部屋、きらきらと舞う埃。大きな窓から差し込む満月の睥睨(へいげい)で、燃えるような赤毛に影が落ちている。作品番号13「ピアニストだった」。

 心を改めさせようとする母から電話越しに失望を伝えられるまでの七度の会話。そのたびに描いた楽器の絵の一枚目で――

 

 ――詩歌の泣いている顔が見てみたい。

 

 いびつな望みを抱きながら描いた、初めての絵でもあった。

 

 

 

 

 

 目を覚ました、と思う。

 いつの間に眠っていたのかわからないが、布団をかけられているからベッドに寝ているのだろう。もう一度眠ろうかと逡巡したものの、結局半身を起こしてぼんやりしていた。

 

 窓に触れる。氷のような冷たさに、埃っぽい汚れのざらつき。日差しは感じなかった。曇りか、あるいは夜か。時間感覚がないのは不便だ。

 相変わらず朦朧とした感覚の中に、扉を開く音が響いた。

 その向こうからかすかな足音と声が届く。

 

「……朱鷺子」

 

 あぁ。

 これも、夢だろうか。

 

「詩歌?」

「……遅くなってごめん。あんたのお母さんに見つかっちゃまずいからさ、こっそり来ちゃった」

 

 内緒話をするような声色で走馬灯はそう言った。

 使われていない机が並ぶ空き教室、ふたりの女子生徒が抱き締めあって慟哭を噛み殺している。作品番号20「睦言(むつごと)」。その片割れの長い栗毛が、暗幕の向こうで揺れた気がした。

 彼女は短い黒髪だというのに。

 

「……でも、来てくれたじゃん。なんでもいいよ」

 

 知らず手を伸ばしていた。

 指先にまず小さな固さが触れて、それからゆっくり、指の股に、手の甲に、するりするりと絡みついて。やがて手のひらに日が差した。詩歌の体温は変わらなくて、今、朝が来た気がした。

 いつも見ていた。ギターを弾くときの横顔も、楽譜にペンを走らせる悩ましげな笑みも、いつだって眩しかった。暗幕の中で今も褪せない、無謬(むびゅう)の光がここにあった。

 

「……いる、いるんだ、夢じゃないんだ。詩歌、会いたかったよ」

 

 転ばせたりしないようにそっと手を引いて、もう片方の手で肩、鎖骨、首、ゆっくり伝って顔に触れる。

 涙が溢れそうになって瞼が締まる。ジクジクと頭の天蓋に響く激痛が愛しくて死んでしまいそうだった。

 

 ぎしりとベッドが軋んで、体がかすかに傾いた。すぐ側に詩歌が座ったのだろう。絵を描く合間合間にギターを習っていた日々が頭をよぎる。

 彼女の顔をそっと撫でる。

 

「……あれ、真顔? 初めて見るかも」

「こんなことがあっても笑ってられるほど図太かないって……」

「んー……それもそっか。詩歌、優しいもんね」

 

 自分のことにあまり頓着しない、描いたものの記憶以外はほとんどおぼろげな私が鮮明に覚えていられるくらい、彼女はいつも優しかった。

 だから私にとってはなんの気無しの言葉だったけれど、詩歌の頬はきゅっと震えた。

 

「……なんで、怒んないの。あたしのせいじゃん、あたしがちゃんと楽器の手入れしてなかったから、目が……!?」

「詩歌」

 

 その顔を両手で挟んで額を合わせた。

 

「あなたが楽器を大切にしてたことくらい、ずっと見てた私は知ってる。ねえ……」

 

 ずっと詩歌を羨んでいた。自由を、責任を背負って立てる強い彼女を。

 

「……取らないでよ。あなたに楽器を習いたいと思ったのも、自分で買わずにいつも借りるようにしてたのも、私の意思なんだから」

 

 第一、あんなのは不幸な事故だ。

 夢を叶えた後だから割り切れるのかもしれないけれど、でも少なくとも、私の視点から詩歌を責める点なんてどこにも――

 

「……朱鷺子。あたし、怖いんだ」

 

 声が、震えていた。

 

「そうだよ、あんなの、事故だ。あたしだってわかってるよ。ただの不幸な事故で、誰かのせいにして安心したりなんかできない」

「なら……」

 

「じゃあ、これ以上の不幸が起きない保証は?」

 

 額がずれて、背中にぐっと温もりが走る。

 詩歌に抱き締められていた。

 

「怖いよ。タチの悪い冗談みたいな事故で目が潰れたんだ。明日にも……ううん、今にも、ありえない不幸に見舞われて死ぬかもしんない。あたしはもう、それを笑い飛ばせなくなっちゃった」

 

 頬が潤んでいく。背中に回された腕に体が軋む。返事をするように、私も握った手に力を込めた。

 

「朱鷺子を失くすのが、どうしようもなく怖い……!」

 

 暗幕の中に像が浮かぶ。コンクールの客席で額を合わせて泣くふたりの少女。外そうとして指先に引っ掛けたままのシルバーリングを捨てられず目を伏せる女性。世紀末のように物であふれた床に転がって空っぽの表情に涙を伝わせる女性。

 あの個展には涙の絵だけを置いていた。人生で見ることのほとんど無い、感情の結晶を零す人々の姿ばかりを。

 

 私は友を見つけた喜びも、横暴な母に抱いた怒りも、遊び歩いた日々の楽しさも表してこなかった。

 彼女の美しさが空想に負けてなるものかと、私は祈りすらしながら、泣き顔ばかり描いていた。

 

 それでも。

 

「……見たい、なぁ」

 

 今、私を思って流れる涙を、絵にしたかった。

 度し難く醜い私を思って流す涙、アクリルで輪郭をかたどり続けた待望の景色を必死に思い描く。温度を、痛みを、匂いを、無理やりにでも現像したかった。

 

「……詩歌の泣き顔が見られないのは、惜しいなぁ……」

 

 空想は際限なく美しいから、こそ。

 ギターを爪弾く詩歌の微笑を最後にした瞳が、暗幕を開けと泣訴(きゅうそ)していた。

 

 

 

 

 

 まだ真新しい杖をカツンカツンと白く響かせながら、詩歌の手を握ってゆっくりと病院を後にする。

 ちょっとどころではなく深い傷、下手をすれば眼圧の低下だかなんだかによって眼球の破裂すらあり得たらしいから、こうしてすんなり退院できただけ御の字だろう。もちろん、まだ通院の必要はあるけれど。

 

 日は隠れているようで、着込んでいてもかなり寒い。すっかり冬の気温だ。

 絡めた指のささやかな温もりに頬の緩む私へ、詩歌はもう何度目かもわからない言葉を投げかけてくる。

 

「朱鷺子、ほんとに音楽やんの?」

「やるよ。もう、絵を描く意味もなくなっちゃったからさ」

 

 そう。

 詩歌の泣き顔を脳裏に描いたあの日から、母は見舞いに来なくなった。

 

「流石に筆で絵を描くのは難しそうだし……お母さん、私に愛想尽かしたみたいだし」

 

 あの人はずっと、私の描く絵にこそ価値を見出していたのだと思う。それを失ったのだから仕方ないと諦められる程度には、夢の実現と視力の喪失は大きな穴を穿っていた。

 憎しみはない。ただ私は凡人になって、母は他人になった。それだけの話。

 

「あなたに教わったギターで、なんかやってみたい」

 

 まぎれもなく、今の本心だった。

 

 ――ふと、詩歌の足が止まった。

 

 慣性のまま二歩先まで進んで、それから見えもしないのに振り返った。

 彼女の手から炎が伝う。指が震えている。

 

「……朱鷺子。聞いてほしいことが、あんだけどさ」

 

 像がちらつく。

 紫の空に暗い風、泣き笑いを浮かべる少女――作品番号7「晩秋」に、飾り気のないショートボブと黒縁眼鏡をかけた真面目そうな風貌が重なる。

 

「……目が見えなくなったこと、少なくともあんたの前では自分のせいだって言わない。だから、これはただのお願いだと思って聞いて」

 

 いつも飄々としている彼女らしからぬ真剣な声色に、私は茶化さず頷く。

 

「ずっと、あんたの作品が好きだった。絵だけじゃない、物の見方とか、美しいものの見つけ方が……朱鷺子の審美眼が好きだ」

「……もう見えないけどね」

「目が見えなくなったからって心が曇るわけじゃないでしょ。……でも、前ほど自在にもの作りはできないだろうからさ。手伝いをしたいんだ」

 

 指絡めた手を優しく引かれて温かく包まれた。

 いつかの食堂で感じた日差しが、この手にまた注いだような。

 

「ギターを録りたいならあたしが機材動かすよ。弾けない楽器は指示通りにあたしが弾く。あんたの頭の中をぜんぶ表現してみせるから――」

 

 暗幕の外に太陽がいる。

 紅潮した頬。潤んだ瞳。痛くて、熱くて、死んでしまいそうなほど愛おしい光。

 

 

 

「――あたしを、朱鷺子の筆にして」

 

 

 

 風が私の髪をぶわりと抱き上げた。 

 

 想像力は人を天使に変える。美しい神様のお膝元へ羽ばたかせる天使に。

 ヘリオスかイカロスか、飛び立った先でどうなるかはわからない。湧き上がるインスピレーションのままに筆を走らせ続けて自己を顧みない芸術の奴隷になるかもしれないし、魂を売って泡銭を稼ぐ小汚いアーティスト風情に落ちるかもしれない。

 

 それでも明日を描けるなら。

 ふたりの羽で立てるなら。

 

 脳幹に灯った翼で、まだ夢の中にいたい。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 



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