目覚めた夜に
病室のカーテンが静かに揺れていた。
風はない。けれど、確かにその白布は揺れていた。夜が深まるにつれ、病院の静けさはどこか別の空間のように思えてくる。
あの朝、見つけた“はな”の姿──背丈が伸び、言葉遣いも落ち着き、まるで何年もの時が流れたような彼女の佇まいは、夢ではなかった。
夕刻、閻魔様に提出する報告をまとめるため、一度家に戻った。巻尾さんの協力のもと、最低限の体裁は整えたけれど、最後の一文だけが書けずに残っていた。
「──“はな”は無事だ。ただし、成長していた」
この事実をどこまで伝えるべきか、判断に迷っていた。
けれどその夜。決定を保留する間もなく、「彼ら」はやってきた。
窓辺に気配を感じ、振り返ったとき、部屋の空気が変わっていた。湿度も、気温も、どこか異質なものに包まれている。
そして、視線の先──
ひとりの“人間ではない者”が立っていた。
長身で、白い衣をまとい、目元には薄い金の仮面をつけている。男とも女ともつかない中性的な顔立ち。静かに、けれど確実にそこに“在る”という実感だけがあった。
「……どちら様ですか」
問いかけは自然に口をついて出た。恐怖はない。けれど、理性がぎりぎり均衡を保っているのが自分でもわかる。
「天上よりの視察。地上にて観測対象の変化が確認されたため、直接の確認に参りました」
言葉は人のものだった。だがその抑揚には、機械的でも感情的でもない、ただただ無機質な確かさがあった。
「……それは“はな”のことですか?」
「はい」
短い返答。
それ以上の説明を求めても、意味はないのかもしれない。俺は机の上の報告書に目を落とす。未記入の最後の行。その空白を、彼らは読み取ったかのように歩み寄ってきた。
「あなたの報告と、我々の観測結果には齟齬がありません。よって、介入は最小限にとどめます。ただし、今後の観察対象として“はな”は登録されます」
「観察……というのは、どういう形で?」
「必要であれば接触を行います。ただし、それは“はな”の状態が一定以上の変化を見せた場合に限ります」
淡々としたその言葉は、脅しでも優しさでもなかった。ただの“事実”として、そこにある。
しばらく言葉を失った。
「……彼女は、どこかと“繋がっている”のか?」
ふと、口から出たその疑問に、視察官はほんのわずかに首を傾げた。
「“接続”の定義によります。魂の状態、霊的共鳴、時空間干渉──いずれも観測値は閾値を超えています。ただし、あなた方が言うところの“繋がり”が感情や意志であるならば、それは未測定です」
曖昧にして明確。言葉の境界を曖昧にしながらも、彼は確かに核心に触れた。
「……あの子は、普通の生活に戻れるんですか」
「それを決めるのは我々ではありません。あくまで“彼女自身”と、あなたの判断です」
そう言い残し、視察官は部屋の空気に溶けるように消えていった。
一瞬、風が吹いたような気がした。そして、何もなかったかのように室内は静けさを取り戻す。
──ただの夢だったのかもしれない。
そう思って目を伏せたその時、机の上に一枚の薄い紙が落ちていた。
そこには、手書きでこう記されていた。
「天界観測局 第七審査部門 視察済み」
「対象:はな」
「判定:要継続観察」
文字は整っていた。まるで公的な書類のような、それでいてどこか柔らかい筆致。
静かにその紙を引き出しの奥にしまった。まだ、何も決まっていない。ただ、彼女の隣にいる。それだけは、決まっていた。
◇◇◇
病院の廊下を歩くと、深夜の静けさが身体にしみこむようだった。
はなの病室に近づく。
そっと扉を開けると、ベッドの上で小さく呼吸する彼女の姿があった。
変わってしまったはな。
けれど──
目を閉じて眠るその横顔は、間違いなく“あのはな”だった。
心の奥に、確かな決意が芽生える。
変わってしまったのなら、それを受け入れよう。
これから先、何があっても、彼女の隣に立てるように。
ゆっくりと扉を閉じた。
未来はまだ、始まったばかりだ。