窓の外はまだ明るさが残っていた。朝の光はゆっくりと街の輪郭を溶かし、静かな影を落としている。病院の正面玄関で待っていると、向こうからゆっくりと歩いてくる二人の姿が見えた。
はなと佐藤さんだった。入院していた二人が揃って退院するのを、俺は静かに待っていた。
はなの姿を見て、言葉を失った。背丈はずいぶん伸びていた。まだ小さいけれど、明らかに赤ん坊ではない。どこか落ち着いた空気を纏い、肌の艶もいつもとは違っていた。ゆったりとした時間の中で、その成長は鮮やかに俺の視界に映り込む。
ベビーカーに乗ることを嫌がり、ぎこちない足取りで歩くはなを、俺はそっと支えた。まだ身体は幼く、不安定さが残っているのに、確かに以前とは違う力強さも感じる。
佐藤さんはそんなはなの様子を静かに見つめていた。目は穏やかだが、どこか遠くを見ているような気配があった。彼女の表情はいつも通り静かで優しいのに、その奥に隠された複雑な感情を感じ取ることができた。
「大きくなりましたね」
佐藤さんはそうだけ呟き、顔にわずかな微笑みを浮かべた。その声は穏やかだったが、どこか寂しさも含んでいるように思えた。
◇◇◇
病院を出て家に戻ると、三人で過ごす時間が始まった。部屋の空気は普段と違い、少し張りつめたような緊張感があった。はなは部屋の片隅に置かれた絵本を手に取った。文字はまだ読めていないようだが、ページをめくる仕草には、なにか意味を探ろうとする真剣さがあった。
その横で、佐藤さんが静かに近づいた。膝をつき、そっと手にした子ども用の柔らかいブラシで、はなの髪をとかしはじめる。
髪は赤ちゃんのそれとは違い、細く長く伸びている。ところどころ絡まった毛を、丁寧に解きほぐしていく佐藤さんの指先に、俺は目を凝らした。
「……おかしいな」
言葉にはしないが、俺にも佐藤さんにも、その髪の質感に違和感があった。まだ幼いはずのはなの体が、どこか現実とは違う異様さを帯びている。髪に触れる佐藤さんの手が、わずかに震えているようにも見えた。
はなは何も言わず、ただ前を向いていた。髪をとかされながらも、視線はまるで遠くを見つめているかのようだった。その瞳の奥には、幼い者には似つかわしくない深い静けさが宿っていた。
しばらくその空気に包まれていたが、ふいに、はながぽつりと口を開いた。
「きのう、そとで、こうもり、とんでた」
その声は幼く、はかなく、けれど確かに俺たちの耳に届いた。
佐藤さんの手が一瞬止まった。俺は思わず息を呑んだ。
「蝙蝠?」
佐藤さんが振り返り、はなを見つめる。
「……あのときの、くらいばしょ。したに、いたの」
はなは静かに答えた。誰にも教えられていないはずの場所を、なぜ知っているのか。言葉の重みに、部屋の空気が固まった。
佐藤さんと俺は互いに目を合わせ、沈黙が続いた。どちらも言葉を発せず、ただ胸の奥に違和感と不安が深く沈み込んでいくのを感じていた。
やがて、日は傾き始め、夜が近づいてきた。俺は静かにベランダに出て、携帯を取り出した。巻尾さんに電話をかける。
「はな、順調に見えますが……」
『でも、どうも普通じゃないっス。成長も早すぎるし、医学的に説明できない部分があるっス』
巻尾さんの声は落ち着いているが、どこか底知れぬ不安が混じっていた。
「あの場所の話は……はなにはしてないです」
言葉を慎重に選びながら答えた。
巻尾さんは少し間を置き、『それがいいっス。何かあればすぐ報告を』とだけ告げて電話は切れた。
布団の中、はなは静かに眠っていた。呼吸は穏やかで、寝息だけが部屋に響いている。
消え入りそうな声で、寝る前に呟いた。
「だいじょうぶ。ちゃんと、まもる」
その言葉を反芻しながら、俺は目を閉じた。だが胸の奥には、深い違和感と、これから訪れるであろう試練の気配が確かに残っていた。