灰色の空が重く垂れこめる朝だった。
いつもの黒いスーツに袖を通し、足早に歩く。舗道の石板は冷たく硬い。空気は湿り気を含み、肺の奥が少しざわつく。だがそれは、天気のせいだけではないように感じていた。
目的地は轟と江藤さんの部署だ。
彼らから先日、来てみるように誘われた。あの事件の後、ここで何が起きているのか、自分の目で確かめろということだろう。
重たい扉を押して中へ入る。
石造りの壁が冷たく、通路の空気は凍りつくように静かだ。足音が反響し、心臓の鼓動までがその中で大きく響く。轟と江藤さんが待つ部屋へと案内された。
扉が開くと、江藤さんがこちらを見た。
「いらっしゃい」とだけ言い、控えめに頭を下げる。彼の表情は硬く、何も言わずに背筋を伸ばしていた。
部屋は無機質だった。壁に貼られた古びた記録紙が無数に並び、監視映像の断片が記録されているらしい紙の切れ端が重なっている。部屋の片隅には使い込まれたホワイトボードがあり、数式や記号が乱雑に書かれていた。
「ここが、俺たちの管理部署だ」と轟が静かに話し始めた。江藤さんが手元の資料を差し出す。そこに記されているのは「あの事件以降の現象分析」。
しかし、「はな」の名前は一切ない。代わりに「対象D」と記されたデータが詳細に書かれていた。
「これが、はなに関する報告書の代わりですか?」
「今のところは。が一番近い回答だな」
その言葉の裏に隠された意味は深い。説明は続かなかった。
江藤さんが静かに言葉を足す。
「収束とは、確認できるまで信用できないものです。油断して観察をやめたら、それが境界の崩れに繋がる」
黙って頷いた。彼らの間に流れる緊張感は張り詰めていて、言葉の端々に見え隠れする重みが息苦しかった。
突然、江藤さんが「昼食です」と言い、簡素な食事を取り出した。冷たいパンと薄いスープ。一緒に口に運ぶが、味はぼやけていて、まるで砂のように舌の上をすり抜けていった。
「味、わかりますか?」江藤さんが目を細めて訊く。
「……集中できない。体調が悪いわけじゃないのに」
そのまま二人は何も言わず、重苦しい沈黙が部屋を包んだ。
食事を終え、席を立つ頃、轟が小声で問いかけた。
「……その、なんだ。あの赤ん坊、いやあの子がもし変わっていたら、お前が一番最初に気づくはず。そうだろ?」
俺は答えられなかった。言葉が喉に詰まったまま、ただうなずくだけだった。
江藤さんは背を向け、壁の資料に何かを書き込んでいる。
静かな時間が流れ、ゆっくりとその部屋を後にした。
◇◇◇
建物を出たあと、しばらく歩いてから、持ち帰った資料のコピーを開いた。
ベンチに腰を下ろし、ページをめくる指が知らず震えていた。数値、観測図、時系列に並ぶ発話記録。どれも冷たい活字だ。だが、ふと目に留まった欄外の手書きの走り書き。
「対象Dは、周囲の記憶・知覚に影響を与える可能性あり」
「“蝶”ではなく、“蝙蝠”に近い挙動が確認された」
読み返しても意味は分からない。ただ、その言葉の温度だけが異様に感じられた。
ふと、視界の端を何かがかすめる。空を仰ぐと、どこからか蝙蝠が一羽、ゆるやかな弧を描いて飛んでいった。
昼間だというのに──。
俺はしばらく、その飛翔を目で追っていた。
◇◇◇
外に出ると、灰色の空はさらに重たくなっていた。
俺の胸の中に、新たな不安の種が静かに根を下ろす。
その根は、気づかぬうちに深く、暗い方へと伸びていく。