灰色の空が、どこまでも重たく垂れ込めていた。
執務室へ戻ってきた直後、胸の奥で何かがほどけたような感覚があった。深く息を吸う。空気は湿っていたが、先日の地下よりはずっとまともだった。
……あの部署は、ひどく静かだった。物音がするたびに自分の身体が硬直していたことに、今になって気づく。
轟も江藤さんも、特別なことは何も言わなかった。機械のように言葉を並べて、ただ案内するだけだった。
それなのに、なぜか妙に疲れていた。
ふと喉の渇きを感じて、佐藤さんが常備していた緑茶の茶筒を手に取る。ほのかな緑色をした茶葉はほんのりと甘い香りがした。
執務机の木目を指先でなぞりながら、ぼんやりと考える。
記録、保管、調整――あの部署で見かけた単語の断片が、脳裏にこびりついて離れなかった。どれも無機質なはずなのに、どこか人の気配を含んでいたように感じる。
とくに気になったのは、棚の中に一瞬だけ見えたラベルだった。
「対象D」。
読み違いかもしれない。でも、それを見たとき、心のどこかが反応したのを覚えている。
D。
――はな、という名前が浮かぶ。
あの子は、今どこで、どんなふうに過ごしているのだろう。
「元気です」と誰かが言っていた気がする。でも、それが本当かどうか、わからない。
俺が覚えている“はな”は、あの施設の中で小さな声をあげていた子供だ。
けれど、時間はもう進んでいる。俺がそこから目を逸らしても、あの子は生きていて、どこかで――。
その思考に蓋をするように、湯呑みを手に取った。
急須はすっかり冷めていた。
◇◇◇
夜。
アパートの部屋に戻っても、何もする気になれず、着替えもしないまま椅子に座っていた。カーテンの隙間から、かすかな星の光が細く差し込んでいる。
手持ち無沙汰のまま引き出しを開けると、古びたメモ帳が出てきた。
たしか佐藤さんが、以前に渡してくれたものだ。
「必要になるかもしれないから」と、静かに言われた記憶がある。
何が必要になるのかは、訊かずじまいだった。
ぱらぱらとページをめくる。
走り書きのメモが並んでいる。どこかの場所の名前。日付。人の名前。消し跡。
そのほとんどが今では意味を持たないように思えた。
けれど、最後のページだけは白紙だった。
いや――
紙の裏面に、かすかにインクの跡が残っている。
角度を変えながら光に透かす。そこに浮かんできたのは、一つの名前だった。
「はな」。
その横にもう一文字あるようだったが、滲んでいて判別できなかった。
インクはずいぶんと古びていた。時間が経ちすぎているのか、あるいは最初から読ませるつもりがなかったのか。
ページを閉じかけたとき、不意に、頭の奥で“呼吸の音”のようなものが響いた。
誰かがすぐそばで、静かに息をしているような気配。
それは恐怖というより、冷たい手をそっと肩に置かれたような感覚だった。
俺は反射的に背後を振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。いつも通りの、暗い部屋だけがあった。
静かにページを閉じる。
そのとき、メモ帳の表紙に目が留まった。
そこには、黒いインクで小さく、こう書かれていた。
――残しなさい。
書きかけのような文字。
震えていたのか、書いた者の意図か、それは不明瞭だった。
けれど、その言葉だけが、胸の奥に確かに残った。