地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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ノイズ

朝、目が覚めたとき、部屋はやけに静かだった。

 

静かすぎる、と感じたわけではない。ただ、耳が覚えているはずの生活音が、そこに存在していないような奇妙な空白があった。雨の気配はない。灰色の空の下、建物の影がくっきりと道を区切っていた。

 

スーツに袖を通しながら、なにかを思い出しかける。だがそれは、指先でつかもうとした瞬間に霧の奥へ沈んでしまった。昨夜のことだ。机に置かれていたメモ帳に、あの文字──「残しなさい」と書かれていた。それがどうしても気になっていたはずだった。それなのに、意味も、感触も、すり抜けていく。

 

ネクタイを締めながら、ふと部屋を見渡す。いつも通りの間取り。いつも通りの家具。しかし、どこか整いすぎている気がした。昨夜、自分が置いたはずのマグカップの位置が少しずれている。靴の位置も、数センチ違う。それだけのことが、心の奥で波紋を広げていく。

 

いつもと同じ道を歩く。板張りの廊下はどこか湿っているようにも感じて、靴の底にやけに柔らかく吸いつく感じがした。頭の奥がわずかに重い。まるで夢から覚めきっていないような、曖昧な視界。

 

部署に着くと、執務室はひどく静かだった。

空調の音だろうか?やけに耳に触る。

自席に向かう途中、ふと立ち止まる。机の上が、きれいに整っていた。

 

誰かが整理したのか。あるいは──自分が、こうして置いたのだろうか。

 

思い返そうとするが、記憶の輪郭がやけに曖昧だった。そもそも、昨日は何時に帰ったのか。何かを話したような気がする。それが誰だったのかさえ、霞がかかったように思い出せない。

 

午後、湯気の立つカップを手に、自席へ戻る途中だった。

廊下の窓から差し込む光は鈍く、空気は乾いていた。

コーヒーの香りのなかに、わずかに焦げたような匂いが混じっている。

 

そのとき──

 

ふと、ある名前が頭をよぎった。

 

──はな。

 

唐突すぎて、足が止まった。思い出したわけではない。ただ、その音が、どこからともなく滑り込んできた。まるで、遠くで誰かが呼びかけたかのように。胸の奥がかすかにざわついた。耳の奥に残る、あの子の声。温度を伴った感覚。

 

目の前の廊下が、遠く感じる。

視界の端で、何かがよぎったような気がした。

ぱたぱたと、蝙蝠の羽音のような音。空耳だと分かっていても、鼓動が妙に早くなる。

 

深く息を吸い込み、気配を振り払うようにして歩を進める。

 

夕方、仕事を終えて帰宅すると、足取りはやや重かった。

何かを忘れている気がした。あるいは、すでに思い出しかけている何かが、背後に立っているような気配があった。

 

部屋に入り、カーテンを閉めて、灯りをつける。

机の引き出しを開けると、あのメモ帳があった。

 

ページをめくると──昨夜見た「残しなさい」の文字は、なかった。

そのページは、破られていた。一枚だけ、きれいに切り取られている。

 

代わりに、次のページに文字が書かれていた。

 

──忘れないこと。

 

それだけ。インクは淡い藍色。筆跡は、自分のものではない。

やや丸みを帯びた丁寧な字。見覚えはないが、どこか懐かしい気がした。

 

手の中にメモ帳を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

何かが始まりかけている。あるいは、すでに始まっていた。そんな気配がした。

 

その夜は、なかなか寝つけなかった。

 

天井を見上げながら、意識の底でざわめく何かを感じていた。

輪郭を持たない記憶が、薄い膜の向こう側で脈打っている。

まぶたを閉じても、それは静かに、そして確実にこちらを見ていた。

 

──何か、いる。

 

その確信だけが、どんどん強くなっていく。

 

しばらくして、ふいに視線を感じて身を起こす。

天井の隅に、何かが──いたような気がした。

黒い影のようなもの。形ははっきりしない。ただ、空気の質が違っていた。

 

カーテンが、風もないのにわずかに揺れている。

 

立ち上がって窓を開け、外を見下ろす。

向かいの屋根の上に、小さな影がひとつだけ乗っていた。

 

風に揺れるように、静かに羽を動かす。蝙蝠のような──それとも。

 

その輪郭を捉えようとした瞬間、それは音もなく姿を消した。

 

目の前に残ったのは、静けさだけだった。

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