午後の空は、白くにじんでいた。
裁判を終えて執務室に戻ると、端末の通知が一つ、点滅している。
差出人は、佐藤さんだった。
「少し、お時間いただけますか」
淡々とした文面。けれど、彼女の言葉から敬語が落ちることは滅多にない。
既読をつけ、指が一瞬止まる。
それでも「了解しました。場所は、そちらで指定してください」と返すと、すぐに短く返信があった。庁舎近くの喫茶室――職員がよく使う、静かな場所だった。
午後三時すぎ。
喫茶室のテーブル席。白磁のカップに手を添えた佐藤さんは、窓際の柔らかな光を背にしていた。
視線が合うと、小さく頷くだけで「こんにちは」の言葉はなかった。
「……身長が、さらに伸びています。今朝の測定で、一週間前から八センチ。昨日からだと、三センチ強です」
机の上に広げられたのは、病院の記録ではなかった。ただのメモ用紙。そこに、箇条書きの数字と単語が並んでいた。
「骨格も……顔つきも、徐々に変わってきていて。あの、目の位置や眉の形など……」
そこまで話して、佐藤さんはふと言葉を切った。
口元に手を当てて、小さく息をつく。普段の彼女には見られない仕草だった。
「……すみません。報告みたいになってしまって」
「いいですよ。このメモ自体も佐藤さんが記してくれていないとわからなかったですし」
「ありがとうございます」
そう言ったときの佐藤さんの声は、少しかすれていた。
風邪でも、涙でもない。どちらでもなく、ただ少し――疲れているように思えた。
「昨日、“また明日ね”と声をかけたら、“また明日”と返ってきました。……明瞭な言葉で、発音もきれいでした。たぶん、意味は理解していなかったと思います。けれど、“言葉を選んで返した”感覚がありました」
言葉の端々に、重ねてきた観察と、その裏にある戸惑いがにじんでいた。
何かに違和感を抱いているのに、それが何なのかを明確にはできない。そのまま、言葉にしている。
「それが何か、おかしいことだと?」
その問いに、佐藤さんは首を横に振る。だが、すぐに小さく、今度は縦に振った。
「……私は、あの子が“成長”しているとは、あまり思えないんです」
「じゃあ何だと思ってますか?」
「“再構成”……のような」
カップに触れていた指が、わずかに止まる。
「どこかに“もともとの形”があって、そこに急いで近づこうとしているような。…時間を巻き戻してるわけでも、成長過程をすっ飛ばしているわけでもなくて……まるで、一度組み直しているような印象なんです」
主人公は、返す言葉を探しながらも口を開けなかった。
彼女の説明は、根拠に乏しい。けれど、否定できる材料もまた存在しなかった。
「……怖いですか?」
佐藤さんは、ほんの一瞬だけ視線を落とした。けれど、すぐに顔を上げる。
「わかりません。ただ……目が合ったとき、違う誰かを見ている気がしたのは、事実です」
淡々としていたその口調に、かすかに揺れるものがあった。
それでも彼女は、自分の言葉を慎重に選んでいた。過剰に不安を煽らず、事実だけを丁寧に並べていくように。
「私自身、はなちゃんが誰かに“なろうとしている”とは思っていません。ただ、“戻っている”とすれば……何か、記憶にないもののほうへ」
「……記憶にないもの?」
「ええ。たとえば、“まだ私たちが知らない”形へ」
何かを言おうとしたがその言葉を飲み込んだ。
……説明のつかないことばかりだ。けれど、佐藤さんの目に浮かんでいたのは、ただの猜疑でも恐怖でもなかった。
彼女は席を立つと、名残惜しむようにカップに視線を落とし、それから主人公の方へ向き直った。
「お忙しいところ、時間をいただいてありがとうございました。……お伝えできて、よかったです」
「それだけ?」
「ええ。それだけです」
その言葉は、たしかに本心だった。何かを訴えるでもなく、ただ冷静に、共有すべき事実として話した。それでも、どこか「ひとりでは抱えきれなかった」という静かな温度があった。
外に出ると、白んだ空に影が一つ、音もなく飛んでいた。
蝙蝠だった。昼間に見るには、あまりにも不自然な。
ポケットの端末が震える。
巻尾さんからのメッセージ。
「明日、例の区画で立入調査が入るッス」
静かに画面を伏せる。
胸の奥に、微かにひっかかるものが残ったまま、庁舎の影に身を沈めた。