朝の空気は、しんと静まり返っていた。
窓の外では雲が低く垂れ込め、遠くでカラスの鳴き声がひとつ響く。冷たい空気が肌を撫でていくのを感じながら、俺はゆっくりとメモ帳を手に取った。
ページをめくると、あの言葉が目に飛び込んでくる。
――残しなさい。
黒いインクで、丁寧に書かれていた。見覚えのない筆跡。
整った文字ではあるが、どこか緊張感が滲んでいるようにも見える。誰かが焦るように、それでも言葉だけは丁寧に選んだ――そんな印象。
しばらく、ただその文字を見つめていた。
どうして、こんな言葉がここに書かれていたのか。
そして、誰がこのメモ帳に触れたのか。自分自身でこれを書いた記憶はない。ページを遡ってみても、それ以前の書き込みには何の変哲もない裁判記録と走り書きばかりだった。
不意に、胸の奥がざらりとした。
まるで何かを忘れてしまっているような――そんな感覚。
◇◇◇
出勤後、執務室はいつも通りの空気に包まれていた。
淡々とした呼び出しと、次々とやってくる罪人たち。
今日は比較的軽微な案件が続いている。争点も複雑ではなく、粛々と処理していけば問題はない。
なのに、どうも調子が出ない。
罪人が何かを喋っている。だが、その声がまるで水の中から聞こえてくるように、耳の奥でくぐもっている。
意味は通じているはずなのに、脳が受け取る前に、言葉の輪郭がぼやけていく。
ときおり頬をつたう汗が、襟元に冷たく流れた。
「……あの、すみませんッス」
声をかけてきたのは巻尾さんだった。裁判が一区切りしたところで、傍に近づいてくる。
「記録データ、昨日分までまとめといたッス。……ちょっと、聞いてもいいスか?」
「……何ですか?」
「最近、先輩の様子って、ちょっと変じゃないスかね?」
俺は思わず、目を細めた。
「変というのは……?」
「いや、別に悪い意味じゃないッス。ただ、退院してからずっと落ち着いてるっていうか……なんか、逆に静かすぎる感じッス。ま、気のせいッスよね。すんません、邪魔したッス!」
巻尾さんは笑って去っていったが、その言葉は耳の奥に残ったままだった。
◇◇◇
仕事が終わったあと、まっすぐ病院へ向かった。
といっても、はなの病室を訪れるつもりはない。今の状況ではあの扉を開けるだけの理由はない。ただ、あの場所に立ちたかった。何かを確認したかった。
受付で名を告げ、経過を尋ねる。
若い看護師がカルテをめくりながら、小さく首を傾げるようにして言った。
「検査の結果は……まだ、出ていないようです。すみません」
「そうですか。ありがとうございます」
それだけを伝えて、俺は病院をあとにした。
白く光る廊下の向こう、はなの病室があるはずの方向を見つめながら、なぜか胸の奥がじんわりと冷えていくのを感じた。
こんなにも時間が経っているのに、結果が出ない。異常な成長で入院した子どもに、何一つ説明がなされていないというのは――普通、あり得るのか。
◇◇◇
帰り道、空はすっかり夜に染まっていた。
濃い墨のような雲の間から、わずかに月の光がのぞく。
湿ったアスファルトを踏みながら、街灯の下を歩いていると、不意に黒い影が視界をかすめた。
小さな、鋭いシルエット。――蝙蝠だ。
建物の間を、音もなく飛んでいく。
立ち止まって見上げたが、すでにその姿は見えなかった。
それでも、あの羽音だけが、耳に残っている気がした。
地下施設の、あの夜を思い出す。
薄暗い空間に響いた不穏な振動。轟の部署の、あまりにも整然とした沈黙。
佐藤さんの、どこか遠くを見るような視線。
そして――「残しなさい」という、あの文字。
気がつけば、はなの顔を思い浮かべていた。
このところ、俺の中で彼女の存在が、じわりと形を変えている気がする。
まだ何も変わっていないはずなのに、何かが確実に変わっていく前兆のような、そんな静かな予感。
帰宅してすぐ、机の上のメモ帳を開いた。
再びあの言葉を見つめたあと、迷いなくページを破り取る。
「これは違う」と呟いた。
誰が書いたのかではなく、なぜ書いたのか――その意図が、理解できない。理解できないものを手元に置いておくのは、危うい。
その代わり、新しいページを開き、ペンを走らせた。
――はな
たったひとつの名前を、真っ直ぐに書く。
それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた気がした。
静かな夜だった。だが、何かが確実に動き始めている。