地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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目が覚めたのは、いつもより少し遅い時間だった。

薄く曇った空が、窓の向こうに広がっている。濡れたような光が床に滲んでいた。

 

深く息を吸いながら、静かに身を起こす。眠ったはずなのに、身体の芯に重たい疲れが残っていた。

それでも、目だけは妙に冴えている。

 

朝食を口に運ぶ。けれど、味がほとんど感じられなかった。

しっかりと咀嚼しているはずなのに、食べている実感がない。ただ淡々と、食事という行為をこなしているだけのような感覚。

 

ふと、テーブルの端に置いていたメモ帳に目がとまった。

昨夜、新しいページに書きつけた文字――「はな」。

 

その文字だけが、時間の中でぽつんと浮いていた。まだ乾ききっていないインクのように、心の中で滲み続けている。

 

◇◇◇

 

午前中、執務室には顔を出さなかった。

今日は休みではないが、午後からの案件に備えれば問題ない程度の調整はできる。

 

時間を持て余すこともなく、気がつけばあの場所のことを考えていた。

轟の部署。あの日、自分がそこにいたときの記憶。

 

ひどく静かだった。何もかもが無機質で、音さえも吸い込まれるようだった。

 

あのとき、確かに何かの視線を感じた。部屋の奥ではなく、むしろ天井に近い、薄暗い一角。そこから、何かがこちらを見ていたような――そんな錯覚めいた感覚が残っている。

 

江藤さんが何かを言いかけて、ふと口を閉ざした瞬間もあった。

些細なことばかりが、今になってひとつずつ浮かび上がってくる。

 

気のせいかもしれない。だが、ただの思い過ごしだと片付けるには、あまりにも静かすぎた。

 

◇◇◇

 

その足で、佐藤さんの家を訪ねた。

平服のまま、手ぶらで出かける。外はまだ明るいが、雲は厚く、地面は灰色に沈んでいる。

 

呼び鈴を押すと、すぐに扉が開いた。

 

「どうぞ」

 

佐藤さんは特に驚いた様子もなく、淡々と迎え入れてくれた。部屋の中は整っており、以前と変わらず静かだ。

出された湯飲みを両手で包みながら、しばし無言の時間が流れる。

 

やがて、口を開いた。

 

「……気になっていることがあります」

 

言葉を選びながらも、はっきりと口にする。

 

佐藤さんは頷くだけで、何も言わなかった。

その反応をどう受け止めればいいのか、少しだけ迷う。

 

「……ただ、まだ断片ばかりで。何かを確かめたい、という気持ちだけがあるだけです」

 

それでも、言葉にしてしまえば気持ちは幾分すっきりした。

 

しばらくの沈黙ののち、佐藤さんがぽつりと呟く。

 

「気づくのが早いですね」

 

その声音に、どこか含みがあった。優しい響きではあったが、何かを抱えている人特有の、奥に重たいものを秘めた響き。

 

「何か知っているんですか?」

 

思わずそう返しかけて、やめた。

訊いても、今はきっと答えてくれない。そう思った。

 

湯飲みを置き、立ち上がる。

 

「ありがとうございました。また来ます」

 

「……ええ、いつでも」

 

玄関の扉を開けかけたとき、背後から声が届いた。

 

「“残す”って、どういう意味だと思いますか?」

 

一瞬だけ足を止める。

振り返らずに答える。

 

「まだ、分かりません」

 

そうして、静かにその場をあとにした。

 

◇◇◇

 

帰宅してすぐ、机に向かった。

「はな」の名前を裁判記録に探しても、見つかるはずがない。名付けたのは自分であり、正式な記録には載っていない。

 

けれど――誘拐、という事実は、どこかに残っているはずだ。

あの子が連れ去られ、地下施設に送られるまでの経緯。運ばれた日時、関わった獄卒や報告書。何かが、記録の中に滲んでいる気がした。

 

過去の裁定記録を、一冊ずつ引き出していく。

小さな違和感の積み重ね。それを今、ようやく追い始めようとしている。

 

メモ帳のページには、昨日と同じ「はな」の文字がある。

名前は書かれていないはずの記録の中に、それに繋がる何かがあると信じたかった。

 

手がかりは、まだ霞の向こうにある。

それでも――手を伸ばす意志だけは、確かだった。

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