地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

121 / 186
疏外感

朝、執務室に着くと、空気は妙に澄んでいた。

窓の外には灰色の雲が垂れ込め、どこかでカラスが鳴いている。

時計の針の音が、普段よりも大きく感じられた。

 

巻尾さんの姿が視界に入ったが、こちらに気づくとほんの一瞬だけ目を合わせて、すぐに視線を逸らされた。

「おはようございます」と声をかけたが、返ってきたのは「……あ、おはようッス」という短い言葉だけ。いつもの調子がない。

あの人らしくもない、妙に事務的な挨拶だった。

 

机に置かれていた資料には、整った筆跡で日付と要件が記されていた。

だが、それがかえって冷たく感じられる。ほんの少し前まで、余白には巻尾さんなりの軽口や走り書きが添えられていたのに。

わずかな違和感が、机の上に滞留しているようだった。

 

午前中の裁判は、淡々と進んだ。

特に難しい案件ではなかったが、罪人の言葉がどこか噛み合わない。

まるでこちらが尋ねている内容とは別の何かを、相手が恐れているような……そんな印象が残った。

記録を終え、席を立つとき、再び巻尾さんと目が合った。

 

「あの……その、記録処理は、あとでまとめときますんで」

 

「ありがとうございます」

 

それだけのやり取りだった。

けれど、巻尾さんの表情はどこか固い。

言葉の端に、何かを避けているような気配があった。

 

昼食の時間になっても、食堂の空気は変わらなかった。

いつも同じテーブルに座っていた数人は、今日は少し離れた席を選んでいる。

話し声が聞こえていたかと思えば、こちらが近づくと静かになる。

無言で席に着き、何も言わずに箸を動かす。それだけの時間が、妙に長く感じられた。

 

午後、廊下で佐藤さんとすれ違った。

こちらが軽く会釈すると、佐藤さんは立ち止まり、小さな声でこう言った。

 

「……ご無理はなさらないようにしてくださいね」

 

その声には温かさがあった。

けれど、それ以上は何も語られないまま、足早に去っていく。

その背中に、問いかけるべき言葉を飲み込んだ。

 

夕方、仕事を終えて窓の外を見ると、空はすっかり暮れていた。

建物の間を滑るように飛ぶ小さな影。蝙蝠の羽ばたきが、夜の空に溶けていく。

ほんの一瞬、あの夜の地下施設の光景が脳裏をよぎる。

整然とした静けさ。無機質な空間。轟の部署の沈黙。

 

机に戻り、メモ帳を手に取った。

あのページには「はな」と書かれたまま、何も変わっていない。

けれど、この文字を見ているだけで、自分がどこか違う場所に立たされている感覚があった。

 

……なぜ、誰も何も言わないのだろう。

以前のような会話は、どこに消えてしまったのか。

静かな距離が、まるで仕組まれたように日々を包み込んでいく。

 

何かが起きている。

そしてそれは、知らないふりをしていても済むようなものではない。

そんな予感だけが、胸の奥で形を持ちはじめていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。