朝、執務室に着くと、空気は妙に澄んでいた。
窓の外には灰色の雲が垂れ込め、どこかでカラスが鳴いている。
時計の針の音が、普段よりも大きく感じられた。
巻尾さんの姿が視界に入ったが、こちらに気づくとほんの一瞬だけ目を合わせて、すぐに視線を逸らされた。
「おはようございます」と声をかけたが、返ってきたのは「……あ、おはようッス」という短い言葉だけ。いつもの調子がない。
あの人らしくもない、妙に事務的な挨拶だった。
机に置かれていた資料には、整った筆跡で日付と要件が記されていた。
だが、それがかえって冷たく感じられる。ほんの少し前まで、余白には巻尾さんなりの軽口や走り書きが添えられていたのに。
わずかな違和感が、机の上に滞留しているようだった。
午前中の裁判は、淡々と進んだ。
特に難しい案件ではなかったが、罪人の言葉がどこか噛み合わない。
まるでこちらが尋ねている内容とは別の何かを、相手が恐れているような……そんな印象が残った。
記録を終え、席を立つとき、再び巻尾さんと目が合った。
「あの……その、記録処理は、あとでまとめときますんで」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りだった。
けれど、巻尾さんの表情はどこか固い。
言葉の端に、何かを避けているような気配があった。
昼食の時間になっても、食堂の空気は変わらなかった。
いつも同じテーブルに座っていた数人は、今日は少し離れた席を選んでいる。
話し声が聞こえていたかと思えば、こちらが近づくと静かになる。
無言で席に着き、何も言わずに箸を動かす。それだけの時間が、妙に長く感じられた。
午後、廊下で佐藤さんとすれ違った。
こちらが軽く会釈すると、佐藤さんは立ち止まり、小さな声でこう言った。
「……ご無理はなさらないようにしてくださいね」
その声には温かさがあった。
けれど、それ以上は何も語られないまま、足早に去っていく。
その背中に、問いかけるべき言葉を飲み込んだ。
夕方、仕事を終えて窓の外を見ると、空はすっかり暮れていた。
建物の間を滑るように飛ぶ小さな影。蝙蝠の羽ばたきが、夜の空に溶けていく。
ほんの一瞬、あの夜の地下施設の光景が脳裏をよぎる。
整然とした静けさ。無機質な空間。轟の部署の沈黙。
机に戻り、メモ帳を手に取った。
あのページには「はな」と書かれたまま、何も変わっていない。
けれど、この文字を見ているだけで、自分がどこか違う場所に立たされている感覚があった。
……なぜ、誰も何も言わないのだろう。
以前のような会話は、どこに消えてしまったのか。
静かな距離が、まるで仕組まれたように日々を包み込んでいく。
何かが起きている。
そしてそれは、知らないふりをしていても済むようなものではない。
そんな予感だけが、胸の奥で形を持ちはじめていた。