地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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鏡よ鏡

誰とも、目が合わない。

 

 朝の廊下を歩く。すれ違う職員たちは、俺を見ていない。

 見えているはずなのに、見ない。まるで俺の輪郭だけが世界から浮いているような、そんな奇妙な断絶。

 

 声をかければ、返事は返ってくる。だがその声は表面だけをなぞっていて、中身のない薄皮のようだった。

 

 この場所に、俺だけが“合っていない”。

 

 そんな疏外感が、喉の奥に引っかかったまま取れずにいる。

 

 執務室に戻ると、机の上に例の手帳があった。最後に見たときは、確かに部屋に置いてきたはずなのに。

 不自然だとは思いながらも、迷わずページを開いた。

 

 《ここは鏡の世界》

 

 その一文に、なぜか心が静かになった。

 不安の正体に、名前がついた。

 この“静かすぎる世界”の違和感に、理由が与えられたような気がした。

 

 背筋をなぞる冷たさを感じながら、俺はその言葉を心の中で繰り返す。

 ――鏡の世界。

 

 ポケットの中の端末が震えた。

 

 一瞬だけ、画面にノイズ混じりの通知が浮かび上がる。

 

 『──……種田さん、聞こえま……?』

 

 その声は、間違いなかった。佐藤さんだ。

 

 だが、通信はすぐに掻き消され、履歴にも記録は残らなかった。

 

 もしかしたら“外”からの接触かもしれない。佐藤さんは、どこか別の場所にいて、こちらへ何らかの手段でアクセスしようとしている。

 それが不完全なものであるにせよ――。

 

 ならばここは、本当に現実ではない。

 模造された空間。

 そして今、そこに閉じ込められている。

 

 手帳の中に記された、別の記述が頭をよぎる。

 

 

《空間構造の“再配置”は、外部からの介入によらず、内的要因で発生する場合がある。認識の深度、および意識の集積が一因となり得る》

 

 もしかしてその原因は……はな、なのかもしれない。

 

 あの夜見た彼女の瞳には、もう子どもの影はなかった。

 無垢と狂気の狭間にあるような、異様な静けさと達観。それはまるで、世界を裏側から見ている者の目だった。

 

 もし、彼女の成長がこの“鏡の世界”を引き起こしたのだとすれば――

 その中心に、知らないうちに引き寄せられていたのかもしれない。

 

 端末が再び震える。

 

 今度はよりはっきりと、ノイズの向こうから声が聞こえた。

 

 『……聞こえていたら、反応してくださ……早く……抜け道が……』

 

 その直後、視界の隅で何かが揺れた。

 執務室の隅にある、古びた鏡。

 

 鏡面が液体のようにわずかに波打ち、そこに“何か”が浮かび上がってくる。

 

 それは――自分自身だった。

 

 いや、少しだけ違う。目の奥の光が乾いていて、表情に熱がない。

 姿形は同じはずなのに、心の底が別物であると本能が訴えてくる。

 

 鏡の中の“俺”が、微かに口を動かした。

 

 「やっと、気づいたか」

 

 その声は音ではなく、頭の中に直接響くようにして届いた。

 

 「お前は、この世界に来るべくして来たんだよ。……あの子が、望んだからな」

 

 「……はな、か?」

 

 鏡の俺は静かに頷いた。

 

 「彼女の中にはもう、子どもじゃないものがいる。お前も、知ってるだろう?」

 

 俺は何も返せなかった。

 

 「この世界を抜けたいなら、自分の“影”に向き合うんだ。こっちに来い。全部、見せてやる」

 

 そう言って、鏡の中の手がこちらへ差し出される。

 

 端末がまた震える。

 切れ切れの音声が、必死に警鐘を鳴らす。

 

 『……だめです、種田さん……“影”が、あなたを……』

 

 その瞬間、通信は途絶えた。

 

 しんとした静寂のなか、世界の外から――

 ノックの音が、確かに聞こえた。

 

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