目を開けると、そこは薄暗く沈んだ部屋だった。
空気は重く、湿り気を帯びている。肌を撫でる冷たさが、現実感をゆっくりと溶かしていった。
色彩はくすみ、世界の輪郭はぼやけている。
けれども確かに、この場所には馴染みがあった。
かつての自宅の居間。時間の溜まった埃の匂いと、微かな木のざらつきが呼び覚ます遠い記憶が、胸を締めつける。
部屋の奥、薄く影を落とすソファに、はなが静かに腰掛けていた。
彼女の姿は以前とは違い、子どもの無垢は消え去り、深い澄み切った湖のように孤独と達観を湛えた瞳がこちらを見つめている。
「ととさま」
その言葉は震えもためらいもなく、けれど強烈な重みを帯びて響いた。
言葉にならず、ただ見つめ返すことしかできなかった。
はなはふっと唇を噛みしめ、震える指先で手元の布を優しく撫でながら、続けた。
「ここは、わたしが作った場所」
「ととさまを守るために」
その声には切なさがにじみ出ていたが、決して揺らぐことのない強い意思が宿っていた。
「外の世界に戻れば、また痛みが襲う。あの時の悲しみも、孤独も、全部」
目を伏せるその横顔に、俺は胸の奥が締めつけられた。
「だから、ここにいてほしい」
俺は静かに手を伸ばした。
指先が触れそうになった瞬間、はながゆっくりと俺の手を取り、ぎゅっと握り返す。
その温もりは確かにあった。
だが、その手の中にどこか遠くへ繋がる冷たさを感じて、俺は戸惑った。
「ととさま」
はなは目を閉じ、細く震える吐息を吐いた。
「ここにいるだけでいい。わたしが、守るから」
その言葉は柔らかく、そして重く、胸に突き刺さった。
背後の古びた鏡が、まるで息をするように震え始める。
暗闇の淵から、俺と瓜二つの“影”がゆっくりと姿を現した。
「よく来たな」
影の声は冷たく重く、直接頭の奥に響いて、身体の芯まで震わせた。
「お前が今いるのは、彼女の優しさという名の檻だ」
その言葉に、俺の心はざわついた。
影は静かに差し出す手をじっと見つめる俺に促すように言った。
「ここから抜け出すには、己の罪と向き合う覚悟が必要だ」
声がさらに低く、静謐な響きを帯びて続く。
「鏡の世界を壊すには、外部の力が不可欠だ」
「お前はかつて、アルカという蝙蝠と契約を交わしたはずだ」
胸の奥に眠る記憶の欠片が鮮明に蘇る。
あの黒く小さな蝙蝠の名――アルカ。
影は言葉を紡ぐ。
「奴の力を呼び出せば、この虚構を断ち切ることができる」
はなは震える声で、懸命に言った。
「でも、アルカを呼び出せば、わたしの世界は壊れてしまう……」
俺は揺るがぬ決意を込めて答えた。
「それでも、俺は現実に戻る」
掌に集中する意志の力。
やがて、闇の中から黒い蝙蝠が翼を広げて姿を現した。
その鋭い瞳は冷たく光り、口元には不敵な笑みを浮かべている。
「お前の願いを叶えてやろう。だが、代償は覚悟しろ」
蝙蝠の力が鏡の世界を揺らし、ひび割れが闇の壁に走り始めた。
はなの作り出した世界が崩壊していく。
その中で、俺は光る手に触れ、迷いなく一歩を踏み出した。
闇と光の狭間を越え、何が待つかも知らずに。