——冷たい。
肌を撫でる空気が、妙に乾いていた。
どこか深い水の底から、徐々に浮かび上がってくるような感覚。
まるで夢の外ではなく、別の層の現実に戻ってくるような——そんな錯覚を覚えていた。
瞼をゆっくり持ち上げると、目に映ったのは見慣れた天井だった。
白く塗られた梁、壁際の書棚、静かに灯るスタンドライト。
目の前には机。その上に広がる散らばった書類と、微かに焦げたような紙の匂い。
「……戻ってこられたんですね」
少し離れた場所から、佐藤さんの声が聞こえた。
整った口調のなかに、どこか安堵の色が滲んでいる。
「ここは……執務室ですか?」
声がかすれていた。
喉の奥が乾いて、うまく言葉が出てこない。
それでも、目に映るものの輪郭は、確かに“地獄”に戻ったことを示していた。
「ええ、そうです。こちらの時間では、ほんの数分しか経っていません」
「数分……ですか」
思わず、自分の両手を見下ろした。
微かに震えていた。指先に残る感触。
……あの子の、小さくて温かい手。
たしかに、触れた。あの子の声も、表情も、忘れようがない。
机の上を見ると、何かが散っているのが見えた。
光を反射する、小さな欠片たち。手に取ると、薄いガラスのようなものだった。
——これは、鏡の破片……?
ひとつ拾い上げて、光にかざす。
その断面が僅かに歪んで、淡い虹色に揺れている。
俺の手の中で、確かに“あの世界”の残響がきらめいていた。
「覚えていらっしゃるんですね。……“彼女”のことを」
佐藤さんの言葉に、そっと頷く。
「ええ。……忘れるはず、ないです」
「そう、ですか」
佐藤さんは無言で手元のファイルを取り出し、そこから一枚の紙を抜き出して差し出してきた。
「少し、確認していただきたい記録があります」
丁寧に受け取ると、そこには観測記録のようなものが書かれていた。
虚構領域における意識転移と、座標の変位に関する考察——
要するに、“俺がどこにいたのか”を調査した記録らしい。
ページをめくっていく。だが、どこにも“はな”という名はなかった。
「……記録には、彼女のことが……まったく載っていないんですね」
「はい。観測班は、対象座標の異常は検知しましたが、意識の接続先までは特定できなかったようです。
結果として、“未確定虚構領域への接続事案”として処理される見通しです」
虚構、か。
でも俺にとっては、あれは“虚構”なんかじゃない。
呼ばれた名、重ねた言葉、あの子のぬくもり。
……あれを“なかったこと”には、どうしてもできない。
「ただ、もう一つ。こちらの方が重要かもしれません」
佐藤さんは再び書類の束から、今度は一枚のメモを取り出した。
「これは報告書の封筒の中に、なぜか一緒に入っていたものです。正式な記録には含まれていません」
受け取った紙は、小さな切れ端だった。
ざらついた紙面に、薄い鉛筆の跡。
不安定な筆圧。幼い文字で、こう記されていた。
「たすけて ととさま」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
まるで喉の奥から、熱いものがこみ上げてくるような感覚。
「……誰が、これを?」
「不明です。封筒を開いたときには既に挟まっていたそうです。
記録には存在しない。けれど、確かに“そこにあった”ものです」
言葉に詰まったまま、その紙片をじっと見つめた。
不思議なことに、まったく見覚えのない筆跡なのに——
その言葉の響きだけで、はなの声が思い起こされた。
“ととさま”と呼ばれた時の、あの響き。
無垢で、それでいて深い覚悟を孕んでいた声。
あの時のあの子が、確かにそこにいるような気がした。
「……この言葉は、はなのもの、だと思います。……根拠は、ありませんけど」
「感覚というのは、記録を超える場合もあります。
むしろ今は、“そう感じた”という事実の方が、重要かもしれません」
そっと手帳を取り出し、癖のようにページを捲っていく。
ふと、あるページで指が止まった。
そこだけ、薄くインクが滲んでいる。
文字が、書きかけのように、かすかに浮かんでいた。
「ととさま、だいじょうぶ?」
声が、胸の奥で震える。
これは——記憶でも記録でもなく、“残響”だ。
あの空間が崩れる直前、あの子の想いが、かすかに現実に流れ込んだ……。
「……佐藤さん。……もしかすると、まだ彼女は、完全には消えていないかもしれません」
「ええ。……その可能性は、ゼロではありません」
「なら、まだ……間に合うんですね」
「間に合うかもしれません。ですが、その代償も小さくはないでしょう」
覚悟は必要です、と、彼女は静かに続けた。
俺は頷く。
もうとっくに、覚悟はしていた。
最初にあの子と向き合った時から、何が起きても受け止めるつもりだった。
椅子を引いて立ち上がる。
足元はまだ少しふらついている。でも、戻ってこられた。
俺はまだ、“ここ”にいる。
背後から、佐藤さんの声が落ちてくる。
「……あなたが“鏡の世界”を壊したことで、封じられていたものが、ひとつ目を覚ましたようです」
「それは……何ですか?」
「まだ正体は分かっていません。けれど、兆候が出ているのは確かです。
世界の底で、何かが静かに動き始めている」
その言葉に、胸の奥で何かが軋むような音がした。
地獄という世界そのものの境界が、わずかに揺らいでいる——そんな気配。
俺は手帳を握りしめた。
たとえ、記録からは消えても、俺の中には確かに“あの子”がいる。
それが幻であろうと、偽りであろうと、関係ない。
取り戻す。
俺自身の手で。
静かな足音を残しながら、俺は執務室を後にした。
砕けた世界の残響を胸に抱いて。