端末の画面は、唐突にブラックアウトした。
非通知のメッセージは痕跡すら残していない。だが指先には、あの言葉の“触感”だけが妙にくっきりと残っていた。
──まだ人でいられるうちに決めろ。
無音の中で、自分の心拍音だけがやけにうるさい。
草原の“ざわめき”も、あれきり止んでいる。まるで観測そのものが一時停止したかのような静けさ。
だが、この部屋──この観測施設の上層にある小さな区画には、まだ“あちら”の気配が残っていた。
施設の構造上、この最上階の観測室は通称“塔”と呼ばれている。半ば冗談のような名称だったが、いまその名が妙にしっくりとくる。ここだけが世界の他の層から切り離され、異質な空気に満たされているような感覚があった。
操作していた端末の前に戻る。
スリープ状態の画面に手をかざすと、ぬるりとした反応が返ってきた。
再起動も操作もしていないのに、画面が静かに明滅を始める。
波形は消えている。だがその代わり、幾何学的なパターンが浮かび上がっていた。
数学では定義されていない形。意味も法則もないはずなのに、どこか“理解できてしまう”構造。
それが、思考の内側へとじわじわと滲み出してくる。
意識の裏側がざわめく。
現実の座標がゆらぎ、身体の位置が不安定になる。椅子に座っているのに、重力の方向が変わったような錯覚。いや──これも、錯覚では済まされない。
何かがこちら側に“形”を持ち始めている。
室内の照明が断続的に明滅し始めた。
背後から足音が近づいてくる。小さな、しかし確かな足取り。
観測施設の誰かが来たのかと思ったが、それは違った。
扉が開いた。
けれどそこには誰もいなかった。
なのに、風が通り抜ける。
風など吹いていないはずの密閉空間に。ひどく冷たい空気が、皮膚の内側をなでるように入り込んでくる。
肺に入る空気がわずかに重い。
呼吸はできる。けれど、空気の成分が変わった気がする。酸素でも二酸化炭素でもない、“何か別の情報”が混ざっていた。
警告灯が点滅し、端末の画面に新たな文字列が現れる。
> 擬似界面を構築中……
> 意識素子の定着を確認
> 【変換まで残り 03:44】
変換。
その一語が、頭の中で何度も反響する。
自分が“何かに変わろうとしている”。
そんな感覚が、すでに疑いようもなく身体の奥に根づいていた。
思考が追いつかない。
けれど、感情のほうが先に動いていた。拒絶でも恐怖でもない。もっと純粋な欲望──「もっと見たい」「もっと知りたい」。
脳の奥底に、あの警句がよみがえる。
──来るのか。
──捧げるのか。
──選べ。
選択の余地は、すでに形式だけだったのかもしれない。
それでも、“今ここで”決断をしなければ、もう二度と戻れない。
◇◇◇
端末が再び反応する。
> 最終確認を実行します
> 現在の意識構造を維持する場合:「CANCEL」
> 次段階への移行を希望する場合:「ENTER」
選択肢。
けれど、指は動かなかった。
そのかわりに、何かが内側から“反応した”。
思考の輪郭が、端末のUIに触れたのだ。
手を動かさずとも、感覚が通じてしまう。あちら側と自分の境界が曖昧になりすぎていた。
画面が震えた。視界に微細なノイズが走る。
現実と非現実の境界が、“割れた”。
次の瞬間、目の前が真っ白になった。
◇◇◇
気がつくと、床に倒れていた。
端末のモニターが低く唸っている。電源は落ちていない。
だが、画面はすでに何も映していなかった。
照明は止まっていた。
外の空は、まだ完全には明けていない。
だが、変わったことがひとつある。
窓の外──そこに草原は、もうなかった。
灰色の大地。赤茶けた岩肌。空は濁ったまま、動きのない層雲が重くのしかかっている。
いつもの、地獄の第一層の風景だった。
──まるで何事もなかったかのように。
しかし、自分の“内側”だけは、確かに違っていた。
世界の風景が変わっていなくても、“視え方”が変わってしまっている。
大地の起伏に混じる意味不明の構造線。岩の割れ目に微かに浮かぶ幾何学パターン。
空気に滲む“他者の気配”。
変換は、始まってしまっていた。
まだ言葉にならない、けれど確かな感触があった。
世界が、こちらの内側を通じて“読み替えられよう”としている。
意識の端で、あの草原のざわめきが微かに響いた。
まるで、どこか深い場所から──「また来る」とでも言うように。