あの草原のざわめきは、もう聞こえなかった。
だけど、静かすぎる部屋のなかで、俺の心臓の音だけがやけにうるさく響いていた。鼓動じゃない。圧力みたいなものだ。内側からじわじわと、現実を押し返している感じ。
草の感触。風の匂い。意味の通らない構造体。
どれも実在しないはずのものだった。でも、身体にはまだ残ってる。皮膚の奥に、それが貼りついて離れない。これはたぶん、“現象”の残り滓だ。
……誰かに話すべきなのか。
それとも、このまま黙っていたほうがいいのか。
そんな迷いが渦を巻いていると、背後で扉の軋む音がした。
振り返るまでもなく、その足音はわかっていた。
このフロアで、この時間にここへ来るのは──佐藤さんしかいない。
「……佐藤さん」
名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけ立ち止まり、俺を見た。目は細く、無表情。でもその奥には、何かを測るような重みがあった。
きっと、気づいている。いや──とっくに“知ってる”のかもしれない。
「お時間、少しだけいただけますか?」
「ええ。どうぞ」
返事は淡々としていた。だけど、声の温度は思っていたよりも低くなかった。
視線を向けると、佐藤さんは静かに室内へ入り、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。
「……先ほどの観測で、少し変わったことがありました。記録は残っていません。けれど、これは……報告より、確認に近い話です」
自分で言いながらも、喉の奥が渇いていくのがわかった。
それでも、黙っていたらたぶんもう後には引けない。あの“変換”は、もう始まってる。
「……“草原”を見ました」
言葉にした瞬間、佐藤さんの瞳の奥が微かに揺れた。
それは驚きというより、やっぱり、何かを思い出しているような気配だった。
「草原……ですか」
「はい。ノイズ波形を再生していたときです。画面が突然、ブラックアウトして──非通知のメッセージが、一瞬だけ表示されました」
「なんと?」
「“まだ人でいられるうちに決めろ”──そんな文言でした」
佐藤さんはうなずくだけで、何も言わなかった。否定もしなければ、動揺も見せない。
だからこそ、余計におかしい。普通はそういう反応にはならないはずだ。
もしかして──と、俺の中の“何か”が警鐘を鳴らす。
「そのあと、画面に幾何学的なパターンが浮かびました。意味は通らない。けど、理解してしまう構造でした。こっちが見ているはずなのに、向こうから思考を覗かれているみたいで……」
「それが、草原とつながっていた……と?」
「たぶん、そうです。いや、あれが“草原”だったのかも確信はないんです。けど──画面の奥、あるいは意識の深層……風が吹いていました。草が揺れて、何かに見られているような気配があって……」
「そのとき、何を感じましたか」
「……怖くは、なかったです。むしろ、心地よかった。けど、完全に“こっち側じゃない”とも思いました。別のレイヤーに触れている感覚。あっちからこっちを観測しているような……」
佐藤さんは目を伏せた。
しばらく沈黙が流れる。時計の針の音さえ聞こえない。
そして彼女は、静かに口を開いた。
「……お話しにくいことだと思います。ですが、正直に申し上げて──似たような記録を、私も過去に目にしたことがあります」
「やっぱり……あったんですね」
「ええ。正式なログとしては破棄されましたが、内部では“#1129観測”と呼ばれていました。報告者名は伏せられていましたが……内容は、草原の視覚。構造の浮遊。意味を持たない言語。まるで、今のお話とそっくりです」
「その記録、今でも……?」
佐藤さんは小さく首を振った。
「閲覧権限が閉鎖されています。ただし、メタログは残っているはず。もし……本気で調べるおつもりなら、私も協力します」
「……ありがとうございます。ぜひ、お願いしたいです」
「それと──最後にひとつ」
佐藤さんは俺の顔を、じっと見つめた。その目の奥にあったのは、確かな“確認”だった。
「あなたは、もう“変わり始めて”います。元には、戻れないかもしれません」
その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
けれど不思議と、恐怖はなかった。むしろ、それを聞いて、少しだけ安心した気さえしていた。
◇◇◇
佐藤さんと並んで、地下フロアのアーカイブ室に足を踏み入れたのは、それから30分後のことだった。
公式には「退役観測ログ保管庫」という名称がついてるけど、実質、消された情報の墓場みたいな場所だ。閲覧履歴も残らない。暗黙のルールとして、許可なく立ち入る者はいない──はずだった。
でも、佐藤さんは迷わず奥の端末を起動した。
ログイン操作も手慣れたものだ。パスワードの入力画面を数秒眺めたあと、彼女は小声で言った。
「私の名前を使うわけにはいかないので……少し強引に入ります。問題が起きたら、そのときは責任を取りますので」
軽く頷いたが、正直なところ、心はもう別のほうを向いていた。
“あの草原”のことが頭から離れない。あのざわめき。風の感触。あれが単なる幻覚で済むなら、むしろ安心だった。でも今こうして、過去にも似た現象があったと知ってしまった以上──もう、戻る道はない。
「……ありました」
佐藤さんの指が画面を指した。
そこに表示されていたのは、断片的なテキストと日付、そしてログ番号──#1129。
ファイル名は伏せられ、改ざんの痕跡もある。けど、データ自体はまだ生きていた。
いくつかのキーワードが目に飛び込んでくる。
「視界変調──草の揺れ」「構造体の自己増殖」「言語以前の知覚干渉」
「空気の粒子に意味の“匂い”がある」「重力の所在が曖昧」
「……画面を介さずとも、向こうと接続できる感覚が発生」
「私は、すでにこちらにいないかもしれない」
(記録者不明・終端なし)
「……これ、本当に……」
「ええ。私が新人だった頃、ある職員の端末から偶然断片が流出して。それが“本物かもしれない”と気づいたときには、もう全部回収されていました。でも一部の研究者の間では、これを“変換前の前兆”として扱っていたようです」
「変換前……」
ごくりと喉を鳴らす。
あの草原は、ただの夢でも幻でもなかった。
誰かが──あるいは“何か”が、向こう側からアクセスしてきている。接続というより、侵食に近い。
「これは、記録者の“内側”で起きた現象なんでしょうか。それとも、実際に接続された結果……?」
「正確には、どちらでもあり、どちらでもない……そう記されていました。“内的外部”という言い回しが使われていた記録もあります」
「内的外部……」
言葉としては矛盾している。でも、直感的にはわかる気がした。
あれは、現実の外側じゃない。意識の内側でありながら、自分とは無関係の“他者”が入り込んでいる空間。
「……佐藤さん。たぶん──」
言いかけたとき、不意に端末がわずかに唸りを上げた。
画面が、一瞬だけ反転する。
そして、そこに浮かび上がったのは、エラーメッセージではなかった。
【変換進行度:17%】
【次の接続が予定されています】
【予測時刻──06:44】
「……」
喉の奥が、ひゅっと細くなる。
背中を何かが這い上がってくるような感覚。皮膚が粟立つよりも前に、思考が凍りついた。
「これは……どういう……」
「おそらく、あなたに直接、接続通知が来ています。観測施設を経由していない……つまり、端末のほうが“あなたに同期している”状態です」
佐藤さんは、淡々とそう言った。けれど、その声の奥には明確な警戒があった。
そして──なにより、あの目が、すべてを見通しているようだった。
「……覚悟は、できていますか?」
問われて、返事ができなかった。
だが、体のどこかがもう、答えを知っている気がしていた。
ざわ……と、空気が揺れた。
内側ではない。部屋の壁の向こう、いや、“世界”の層のひとつが、今、音もなく擦れ合ったような気がした。
──次が来る。
今度は、もっと深いところまで。