地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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再び

アーカイブ室の扉を出たのは、まだ薄暗い朝の六時過ぎだった。

 冷え切った空気が肌を刺し、施設全体が目覚めの途上にあるような静けさが漂っていた。

 

 佐藤さんの声が静かに響く。

 

「接続時刻までは、できるだけ普段通りの行動を心がけてください。緊張は、かえって障害になります」

 

 その声にはいつもの落ち着きがあったが、どこか遠くを見据えたような、わずかな揺らぎが混じっているようにも感じられた。

 

 彼女はそう言うと、振り返らずに静かに立ち去った。

 残された部屋には、一人だけの静寂が満ちていた。

 

 待機室の椅子に身を沈め、手にした端末を起動する。

 今日の観測記録をまとめようとしたが、言葉は思考の波に乗らず、どこか宙に浮いてしまう。

 

 書きかけの文字列が、勝手に変化し、文章の意味が揺らぐように感じられた。

 

「……これは、ただの錯覚なのだろうか」

 

 意識の奥底に違和感が染みわたる。

 時計の針は正確に時を刻んでいるはずだ。だが、内側で感じる時間の流れは異質で、不規則に波打っていた。

 

 一分がまるで五分のように長く伸び、聞こえているはずの物音がまるで電子ノイズのように歪む。

 端末のログが、勝手に更新され続けているのにも気づいた。

 

 これは一体……現実の断片なのか?

 

 そんな疑念が頭をもたげてくる。

 

 ふいに背後で、かすかな足音が響いた。

 

「種田さん」

 

 振り返れば、佐藤さんがそこにいた。

 普段通りの敬語で話す彼女の瞳には、普段隠している揺らぎが浮かんでいた。

 

「様子がおかしいようですね。変換の兆候が現れています」

 

 言葉が喉の奥で引っかかり、返す声が出なかった。

 

 端末が再び反応する。

 

【変換進行度:28%】

【接続準備中】

 室内の空気が押しつぶされるように重くなる。

 外の世界の音がすべて消え、深い沈黙が周囲を包み込んだ。

 

「言葉を失っても、感覚で繋がることができます」

 

 佐藤さんの声は、遠くから届くように静かで、どこか儚げだった。

 彼女は既に、この境地を経験しているのだろう。

 

 時刻はまもなく06:44。

 空気が張り詰める。

 

 佐藤さんの口調は変わらず穏やかだが、確固たる覚悟が滲み出ていた。

 

「ここから先は、言葉も論理も通じません。感覚だけが道標です」

 

 視界の端で微かな揺らぎが揺れ動く。

 まるで世界の縁が、少しずつ崩れ落ちるかのように。

 

 異変の前触れを肌で感じる。

 

 重力の感覚が徐々にぼやけていく。

 地に足がついているのか、それとも宙に浮いているのか判然としない。

 

 変わらぬ景色の中に、しかし確実に“なにか”が潜み始めていた。

 

 端末の画面に文字が浮かび上がる。

 

【変換進行度:45%】

【接続間近】

 室内の灯りが断続的に明滅し、空間の境界が揺らぎを増していく。

 

 言葉を越えた“何か”が、意識の奥へとじわりと迫る。

 

 佐藤さんがそっと手を差し伸べた。

 

「……私たちの心が、あちら側と共鳴し始めています」

 

 その言葉には、恐怖を超えた静謐な覚悟がこもっていた。

 

 そして、瞬間が訪れた。

 

 06:44を過ぎたその瞬間、空間がざわめき、視界が幾重にも裂けていく。

 

 そこに広がったのは、見慣れた草原の風景。

 

 しかし、今回は違っていた。

 

 風景は重厚で生々しく、肌を撫でる冷たい風や草のざわめきまでがリアルに感じられた。

 

 完全な静寂の中で、風の一つひとつの動きが、まるで異世界の言葉のように見える。

 

 身体がどこに触れているのか、空中に浮いているのかも分からず、感覚が揺らいだ。

 

 視界の端で、ぼんやりと揺れる輪郭の中に、何者かの存在を感じた。

 

 確かに、こちらを見つめていた。

 

 次の瞬間、意識が引き裂かれるような激痛に襲われ、世界は白く染まった。

 

◇◇◇

 

 意識が戻ると、再び草原の風景が広がっていた。

 

 しかし今度は、冷たい風の感触も鮮明で、草のざわめきが耳に届く。

 

 そして、草原の中央に、一人の人物が立っているのがはっきりと見えた。

 

 その輪郭はまだぼやけているが、確実にこちらを見つめている。

 

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