意識が戻ると、視界は再び広大な草原に覆われていた。
しかし今度は前よりも鮮烈に、冷たい風が肌を撫で、草が静かにざわめく音が耳に届く。
微細な草の揺れが視界の端をくすぐり、遠く草原の中心に一人の人物がぼんやりと浮かび上がる。
その輪郭はまだ揺らぎ、不確かであるものの、確実にこちらを見据えている。
足が勝手に動き始め、湿った土の匂いを吸い込みながら、その影に近づいていく。
胸の奥で絡まった感情がほぐれ、じわじわと温かさを帯びながら、しかし同時に鋭い違和感も膨らんでいく。
「なぜ、ここにいるのか」と問いたくなる衝動を押し殺し、言葉は飲み込まれ、ただ視線だけがその人影を追う。
ふと、視界の端に過去のかすかな記憶が浮かぶ。
街のざわめき、夕暮れの空、冷たい白壁に囲まれた病室。
それらは風のようにひらひらと舞い、消えゆく。
次第に草原の輪郭も崩れ始め、視界は白い霧に包まれていく。
やがて、全ての色彩は溶け去り、真っ白な空間が広がった。
その無垢な白の中に、確かに「あの子」の輪郭が漂う。
息遣いだけが静寂を破り、柔らかく響いていた。
◇◇◇
一歩、また一歩と踏み出すごとに、世界は揺れ動きはじめた。
草原の風景は波のように揺らぎ、色彩が薄れ、断片的な過去の映像が割り込む。
公園の木漏れ日、遠い街灯の灯り、子供たちのはしゃぐ声。
夢の断片のように、瞬間的に鮮やかに浮かんでは消え去る。
思い出そうと手を伸ばすが、掴めるものはなく、輪郭は薄れていく。
意識は揺らぎ、不安がじわじわと広がっていく。
観測の枠組みから溢れ出る存在が、薄れていくように見えた。
その刹那、全ての色彩が一瞬で蒸発し、視界は完全な白に塗りつぶされた。
その白い無の空間に、ただ一つだけ、かすかな輪郭が浮かんでいた。
間違いなく「あの子」の形だった。
声をかけようとしたが、声は喉の奥で消え、無音の空気が満ちていた。
ただ静かな呼吸だけが、その空間を満たしている。
◇◇◇
突然、意識が霧から引き戻される感覚に襲われた。
まるで重たい霧が晴れるように、視界が一変する。
気づくと、端末の前に座っていた。
画面には、見慣れぬログが次々と表示されていく。
「#1407 未記録存在への接触」
「#観測不能フレーム挿入」
記録されるはずのない、存在しない個体の痕跡が観測領域に現れたのだ。
端末の向こうから声が静かに響く。
「これは……あの子の記録ではないはずだ」
その声に揺らぎが混じり、言葉にはできない何かが含まれていた。
「それでも、確かに見た」
胸の奥でざわめきがさらに強まる。
観測の枠を越えた、異なる何かがここに存在している。
名前を呼ぶことは、まだできなかった。
◇◇◇
言葉にしようとした名前は、喉の奥で絡まり、声にならなかった。
静かな声が響いた。
「名前を与えてしまえば、それは観測対象になる」
「まだ、このシステムには属さぬ存在だ」
その言葉に胸の奥が微かにひび割れる。
だが、呼ばずにはいられなかった。
「……はな」
震える声が、小さく確かな決意を伴って放たれる。
草原の彼方で、かすかな揺らぎが生まれた。
まだ形の定まらぬ存在が、その呼びかけに応えようとしているようだった。