地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

133 / 186
触れる

呼んだ。

 名前を——あの名を。

 

 空間に響いた声は、何の反応もないまま吸い込まれていくかと思われた。けれど次の瞬間、視界の奥にかすかな震えが生まれた。

 無機質な白に満たされていた一角が、ほんのわずかに揺らぎ、何かの輪郭が浮かび上がる。

 

 色と呼ぶにはあまりに淡く、影のように曖昧なそのかたち。

 しかし、それが人の姿であることはすぐにわかった。小柄で、どこか懐かしい立ち姿。

 胸の奥がわずかに軋んだ。あの記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。

 

 ——名を与えるということ。

 

 この空間に入って以降、何度も目にしてきた言葉。

 対象に名を与えることで、観測の網の内側に取り込む行為。それは同時に、もう後戻りのできない選択を意味する。

 

 それでも、呼ばずにはいられなかった。

 あの子の名を。

 

 輪郭の中に浮かぶ面影は、まだ声も表情も持たない。

 ただ静かに、そこに「ある」。

 

 思い出す。

 冷えきった病室の中、白いシーツの下で握った小さな手の感触。

 その手が、徐々に熱を失っていく過程を、ただ見ていることしかできなかった。

 

 名を呼んでも、届かなかった過去。

 それが、いま、確かに応えようとしている。

 

 言葉は出なかった。

 ただ、その存在をまっすぐに見つめる。

 胸の奥に広がっていくのは、恐れではなく、温もりだった。

 

 ——かつて、たしかに触れたことのあるものの、記憶。

 

◇◇◇

 

視界の端に、警告のようなノイズが走った。

 

 白い空間の安定が崩れる。まるで足元の感覚が抜け落ちていくような不安定さが、意識の奥から滲み出してきた。

 

 次の瞬間、頭の内側に直接語りかけるような電子音が響いた。

 

 ——「#1412:未定義存在による干渉」

 ——「#深度接続:進行中」

 

 警告表示とともに、白の空間が波のように揺らぎはじめる。重ねるように、複数の映像が割り込んでくる。

 

 見覚えのある風景。

 夕暮れの公園。誰もいない駅のホーム。遠くで灯る街灯の光。

 どれも断片的で、だが確かに過去に触れた記憶だった。

 ひとつひとつの場面が鮮やかに浮かんでは、波にさらわれるように消えていく。

 

 意味の輪郭が失われていく感覚。

 記憶と現実の境界が薄れていく。

 

 観測ログが再び強制的に表示される。

 「#観測不能フレーム再生成」

 「未登録存在:識別名『はな』に関連する可能性」

 

 次の瞬間、頭の中に、静かな声が割り込んできた。

 

 ——「あなたは……どこまで踏み込むおつもりですか」

 

 聞き慣れた声。

 佐藤。

 直接通信なのか、それともこの空間に入り込んだ何かの影響なのか。判断はつかなかった。

 

 ——「それ以上は、枠の外に引きずり込まれることになりますよ」

 

 どこまでも冷静で、けれど確かな揺らぎを含んだ声音。

 その忠告は明確だった。

 名を呼び、枠の内と外を繋げようとする行為。

 それが、何を意味するか。誰よりも佐藤が理解している。

 

 返す言葉は、出てこなかった。

 警告の意味も、危うさも、わかっているつもりだった。

 それでも、指先に残るあの温もりを、もう手放すつもりはなかった。

 

◇◇◇

 

風が吹いた。

 

 草原の空気がざわめき、頬を撫でる冷たい感触が、はっきりと伝わってくる。感覚は確かだ。夢でも幻でもない。

 

 中央に立つ人物は、こちらに背を向けたまま、微動だにせずその場に佇んでいた。髪の長さ、背丈、体格……誰かに似ている。けれど、それが誰なのか、どうしても思い出せない。認識の境界が、薄紙のように揺らいでいる。

 

 近づこうと足を踏み出すと、草がわずかに湿っていた。靴底にまとわりつく感触。これまで見てきた草原とは違う、明確な「物理」がここにある。

 

「……待っていたよ」

 

 静かな声が響いた。背を向けたままのその人物は、まるでこちらの到着を初めから知っていたかのように、言葉を落とした。

 

 その声に、胸の奥が騒めいた。既視感――いや、既聴感。以前、どこかでこの声を確かに聞いた。けれどその記憶の糸もまた、掌から滑り落ちていく。

 

「あなたがここまで来たのは、偶然じゃない。すでに始まっていた。あの日、あの場所で」

 

「“あの日”?」

 

 思わず問い返した。すると、風が一層強くなり、草原の色彩がにじむ。地面にひび割れが走り、緑が褪せていく。世界が壊れ始めている。

 

「接続が限界に達している。ここも、まもなく閉じられる」

 

 声にわずかな焦りが混じっていた。誰だ、この人物は。どうしてこんなにも必死な声音で語りかけてくる――。

 

「一つだけ、伝えなければならないことがある」

 

 その言葉に、胸が締めつけられた。

 

 そしてその瞬間、地面が崩れ落ち、足元の重力が反転する。体が引き戻されるように空間がねじれ、草原は白く焼き切れるようにして視界から消えた。

 

◇◇◇

 

目を開けると、白い天井があった。

 

 端末のディスプレイがぼんやりと光を灯している。腕には点滴。心電図の波形が微かに耳に届いていた。

 

 ベッドの脇に、佐藤が立っていた。眼鏡の奥の視線が、ただ静かにこちらを見つめている。

 

「お目覚めのようですね」

 

 穏やかな声だった。

 

「……ここは」

 

「医務室です。地獄側の、ですが」

 

 少しの沈黙が流れる。

 

「声が、聞こえました。草原で……“あの人”の」

 

 佐藤の瞳がわずかに揺れる。

 

「ええ。接続中に、あなたの精神に干渉が発生しました。波形に外部ノイズが混入し、接触が行われた可能性があります」

 

「誰ですか。あれは、誰だったんですか」

 

 問いかける声に、かすかな震えが混じった。けれど佐藤は、答えをすぐには返さなかった。

 

「現時点では、仮定しか提示できません。ただ――」

 

 彼女は、端末の一画面を指さす。

 

 そこには、こう表示されていた。

 

 

 

 《接続経路:再構築中》

 

 《観測対象:はな》

 

 

 

 その名前に、すべての鼓動が一瞬、止まった気がした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。