呼んだ。
名前を——あの名を。
空間に響いた声は、何の反応もないまま吸い込まれていくかと思われた。けれど次の瞬間、視界の奥にかすかな震えが生まれた。
無機質な白に満たされていた一角が、ほんのわずかに揺らぎ、何かの輪郭が浮かび上がる。
色と呼ぶにはあまりに淡く、影のように曖昧なそのかたち。
しかし、それが人の姿であることはすぐにわかった。小柄で、どこか懐かしい立ち姿。
胸の奥がわずかに軋んだ。あの記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
——名を与えるということ。
この空間に入って以降、何度も目にしてきた言葉。
対象に名を与えることで、観測の網の内側に取り込む行為。それは同時に、もう後戻りのできない選択を意味する。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
あの子の名を。
輪郭の中に浮かぶ面影は、まだ声も表情も持たない。
ただ静かに、そこに「ある」。
思い出す。
冷えきった病室の中、白いシーツの下で握った小さな手の感触。
その手が、徐々に熱を失っていく過程を、ただ見ていることしかできなかった。
名を呼んでも、届かなかった過去。
それが、いま、確かに応えようとしている。
言葉は出なかった。
ただ、その存在をまっすぐに見つめる。
胸の奥に広がっていくのは、恐れではなく、温もりだった。
——かつて、たしかに触れたことのあるものの、記憶。
◇◇◇
視界の端に、警告のようなノイズが走った。
白い空間の安定が崩れる。まるで足元の感覚が抜け落ちていくような不安定さが、意識の奥から滲み出してきた。
次の瞬間、頭の内側に直接語りかけるような電子音が響いた。
——「#1412:未定義存在による干渉」
——「#深度接続:進行中」
警告表示とともに、白の空間が波のように揺らぎはじめる。重ねるように、複数の映像が割り込んでくる。
見覚えのある風景。
夕暮れの公園。誰もいない駅のホーム。遠くで灯る街灯の光。
どれも断片的で、だが確かに過去に触れた記憶だった。
ひとつひとつの場面が鮮やかに浮かんでは、波にさらわれるように消えていく。
意味の輪郭が失われていく感覚。
記憶と現実の境界が薄れていく。
観測ログが再び強制的に表示される。
「#観測不能フレーム再生成」
「未登録存在:識別名『はな』に関連する可能性」
次の瞬間、頭の中に、静かな声が割り込んできた。
——「あなたは……どこまで踏み込むおつもりですか」
聞き慣れた声。
佐藤。
直接通信なのか、それともこの空間に入り込んだ何かの影響なのか。判断はつかなかった。
——「それ以上は、枠の外に引きずり込まれることになりますよ」
どこまでも冷静で、けれど確かな揺らぎを含んだ声音。
その忠告は明確だった。
名を呼び、枠の内と外を繋げようとする行為。
それが、何を意味するか。誰よりも佐藤が理解している。
返す言葉は、出てこなかった。
警告の意味も、危うさも、わかっているつもりだった。
それでも、指先に残るあの温もりを、もう手放すつもりはなかった。
◇◇◇
風が吹いた。
草原の空気がざわめき、頬を撫でる冷たい感触が、はっきりと伝わってくる。感覚は確かだ。夢でも幻でもない。
中央に立つ人物は、こちらに背を向けたまま、微動だにせずその場に佇んでいた。髪の長さ、背丈、体格……誰かに似ている。けれど、それが誰なのか、どうしても思い出せない。認識の境界が、薄紙のように揺らいでいる。
近づこうと足を踏み出すと、草がわずかに湿っていた。靴底にまとわりつく感触。これまで見てきた草原とは違う、明確な「物理」がここにある。
「……待っていたよ」
静かな声が響いた。背を向けたままのその人物は、まるでこちらの到着を初めから知っていたかのように、言葉を落とした。
その声に、胸の奥が騒めいた。既視感――いや、既聴感。以前、どこかでこの声を確かに聞いた。けれどその記憶の糸もまた、掌から滑り落ちていく。
「あなたがここまで来たのは、偶然じゃない。すでに始まっていた。あの日、あの場所で」
「“あの日”?」
思わず問い返した。すると、風が一層強くなり、草原の色彩がにじむ。地面にひび割れが走り、緑が褪せていく。世界が壊れ始めている。
「接続が限界に達している。ここも、まもなく閉じられる」
声にわずかな焦りが混じっていた。誰だ、この人物は。どうしてこんなにも必死な声音で語りかけてくる――。
「一つだけ、伝えなければならないことがある」
その言葉に、胸が締めつけられた。
そしてその瞬間、地面が崩れ落ち、足元の重力が反転する。体が引き戻されるように空間がねじれ、草原は白く焼き切れるようにして視界から消えた。
◇◇◇
目を開けると、白い天井があった。
端末のディスプレイがぼんやりと光を灯している。腕には点滴。心電図の波形が微かに耳に届いていた。
ベッドの脇に、佐藤が立っていた。眼鏡の奥の視線が、ただ静かにこちらを見つめている。
「お目覚めのようですね」
穏やかな声だった。
「……ここは」
「医務室です。地獄側の、ですが」
少しの沈黙が流れる。
「声が、聞こえました。草原で……“あの人”の」
佐藤の瞳がわずかに揺れる。
「ええ。接続中に、あなたの精神に干渉が発生しました。波形に外部ノイズが混入し、接触が行われた可能性があります」
「誰ですか。あれは、誰だったんですか」
問いかける声に、かすかな震えが混じった。けれど佐藤は、答えをすぐには返さなかった。
「現時点では、仮定しか提示できません。ただ――」
彼女は、端末の一画面を指さす。
そこには、こう表示されていた。
《接続経路:再構築中》
《観測対象:はな》
その名前に、すべての鼓動が一瞬、止まった気がした。