端末の画面に表示された通知が、静かに瞬きを繰り返す。
──接続中:干渉領域“禁書域”。
その言葉を見た瞬間、鼓動がひとつ跳ねた。知っている名だった。忌まわしい記録群が収められた、あの領域。
過去の観測者たちが触れてしまった、触れてはならなかった場所。
そこに、自分もまた足を踏み入れようとしている。
変換進行度はなおも上昇を続けていた。
数値は刻一刻と書き換わり、やがて新たな段階へと突入したことを告げる。
──変換プロセスβ段階 → γ段階に移行。
視界がふたたび揺らぐ。重心が狂い、足元の確かさが遠のいていく感覚。
それでも意識だけは、必死にこの場にしがみついていた。
◇◇◇
周囲の空間が、ゆっくりと変容していく。
風が吹いた。だがそれは草原の柔らかな風ではない。灰をまとうような冷たい気流だった。
地面には砕けた瓦礫と焦げついた文字列が転がっている。記録の屍のように。
その中央に、ぽつんと立つ少女の姿があった。
はなだ──そう思った。
けれど、何かが違っていた。視線を合わせようとするたび、焦点がずれていく。
知っているはずの輪郭が、どこか違って見える。
端末が振動し、音声が再生される。
「この音声を聴いているということは、観測が深度αを超えたことを示す。これより先、知覚そのものが書き換えの対象となるだろう」
佐藤さんの声だ。だがこれは、過去に録音されたもの。
記録の中から抜き出された忠告。
「変換の進行は、これまで以上に過酷なものになります。覚悟を持って進んでください」
静かな語調に、微かな緊張がにじんでいた。
佐藤は、どこまでこの展開を予測していたのか。
そして──なぜ今、自分にそれを託すのか。
◇◇◇
視界の隅に、もうひとつの影が現れた。
あれは……“はな”ではない。
どこか似ている。だが、その存在には「名」がない。
それゆえに、観測の焦点をすり抜ける。
輪郭を持ちながらも、定義できない存在。
まるで、選ばれなかった誰か──否定された可能性のようだった。
端末が新たな通知を吐き出す。
──写本の座標:再補足失敗。
──構造解析中……対象:未観測領域。
理解が追いつかないまま、思考だけが暴走する。
写本。記録。名を与えること。
これまで断片的に接してきたそれらの概念が、ひとつの線として繋がっていく。
──名を与えることで、存在は記録される。
──名を与えられなければ、それは永遠に“観測されない”。
あの少女は、記録されなかった存在。
観測者によって定義されることを拒み、あるいは、失ったもの。
そのとき、少女がふとこちらを見た。
名前のない顔で、確かにこちらを見ていた。
言葉が、どこかから響く。
「写本の回収は、すでに始まっている」
それが誰の声かも、もうわからなかった。
ただ、その意味だけは明確に突き刺さる。
◇◇◇
黒い闇の中、ひとつの灯火が揺れていた。
名前を与えたことで壊れた境界線は、ゆっくりと修復の兆しを見せる。
だがその行為が持つ重みは、深く胸に沈殿していく。
──名前とは、存在に刻まれた印。
それは支配であり、拘束であり、そして救済でもある。
自分が与えた名が、その存在をどう変えてしまったのか。
いや、まだ名を与えていない存在が、ここにいる。
どちらを選ぶか。それとも、選ばないか。
問いは明確だが、答えはまだ遠い。
この先、どこまで進むべきなのか。
何を失い、何を守るために──
思考が深く沈み込む。
視界の奥、空間がふたたび歪み始める。
次の観測座標が、こちらを呼んでいた。
進むべき道はただ一つ。
――先へ。