端末のログを閉じ、現世に写本を取りに行く以外に選択肢はなかった。
視線を上げると、佐藤さんはすでに立っていた。左手には見慣れた──だが異様に鮮やかな──ショッキングピンクの扉の取っ手を握っている。
どこかの美術セットのような浮いた存在感が、地獄の空間に溶け込まずに浮いていた。
「準備は、よろしいですか」
「ええ」
この扉は、過去にも数回使ったことがある。初めて見たときは驚いたが、今ではもう慣れていた。
見た目はどうあれ、確かにあの向こう側へつながっている。
取っ手に手をかけたその時、佐藤さんがふいに声をかけた。
「少し待っていてください」
戸惑いながら頷くと、遠くから足音が近づいてきた。
轟と江藤さんが現れた。二人とも変わらず凛とした佇まいで、まるでこの世界の一部のように静かにそこにいた。
「現世には轟も同行します」
佐藤さんが告げる。
「頼もしいですね」
わずかに笑みが浮かんだ。
同行者が増え、重かった決意の一部が軽くなった気がした。
轟が扉の前に立っているのが見えた。
彼の首には、自分と同じく黒いチョーカーがついている。デザインは違うが、色は揃っていた。
「現世に行くなら、あのチョーカーは外したほうがいいです」
佐藤さんの声が静かに響く。
首に手をやりながら、轟に問いかけた。
「轟もつけているのか?」
軽くうなずく。
「地獄側から現世に来る者は、存在の境界を示すためにそれをつけている。デザインは違うが、色は黒で揃えている」
佐藤さんが説明を添える。
「現世は観測の干渉が違います。チョーカーをつけたままだと干渉を受けやすいため、外すのが安全です」
轟は少し照れたように笑い、首のチョーカーを外して差し出した。
こちらもそれを外し、受け取る。
「これで少しは楽になるはずです」
そう告げられ、胸の奥で覚悟が静かに固まっていくのを感じた。
◇◇◇
扉の向こうに一歩踏み出すと、空気がガラリと変わった。
地獄の重苦しい空気は消え、乾いた秋の風が頬を撫でる。
見慣れたはずの景色だが、どこか薄暗く、時間が止まったような違和感があった。
駅のホームに立っている。周囲の人々は目の前にいても、こちらには気づかない幽霊のようだった。
手にした端末が、写本の反応を示している。
それはここから数百メートル先、古びた古書店のある通りに集中しているようだ。
歩き始めると、頭の奥にかすかなざわめきが響いた。
かつての記憶と、何か別の存在の気配が重なり合う。
通り過ぎる街灯の影が、わずかに揺れて見えた気がした。
目指す先は、あの日離れた場所。
ここに写本の断片が残されているはずだ。
胸の内に、不安と決意が交錯する。
どれほど時間が許されるのか分からないまま、足を進めた。
薄暗い通りを歩いていくと、目的の古書店が見えてきた。
窓には埃が積もり、時代を感じさせる佇まいだが、そこだけが不思議と空気が静かだった。
店の前に立ち、端末の反応を確かめる。
写本の反応は確かにここで最も強く示されていた。
ゆっくりと扉の取っ手に手をかけ、押し開ける。
店内は薄暗く、木の棚がところ狭しと並んでいる。
足音は床に吸い込まれるように消え、周囲の空気は重く、時が止まっているかのようだった。
手探りで棚の隅を探ると、埃をかぶった封筒が目に入る。
端末がそれを指し示している。
封筒をそっと手に取り、中を見ると、写本の断片が慎重に収められていた。
確かに写本はここにある。
しかし、同時に背後で微かな気配が忍び寄るのを感じていた。
まだ安全とは言えない。
写本の断片を手に取った瞬間、背後の空気がひんやりと変わった。
気配は確かにそこにあった。じっとこちらを見つめるような、黒い影の存在。
振り返ろうとするが、体が硬直しそうになる。
それでも意を決して振り返ると、そこには誰もいなかった。
しかし、薄暗い店内の隅にわずかな動きが見え隠れしている。
まるでこちらを監視しているかのように。
警戒心が一気に高まり、握りしめた写本の断片が冷たく感じられた。
「まだ安全ではない」
そう心に刻みつつ、早くこの場を離れなければならないと感じた。
だが、出口に向かう足取りは重かった。
見えない何かが、じわじわと迫っているような気配に背筋が凍る。
それでも決意を新たに、断片を大切に抱きしめ、静かに店の扉を開けた。
秋の冷たい風が頬を打ち、現世の空気が戻ってくる。
だが、すぐに振り返ることはできなかった。
進むべき道はまだ続いている。