地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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不知火

 雨はもう止んでいた。

 

 灰色の雲の隙間から、かすかに陽が差している。だが、街はまだ濡れていた。アスファルトには小さな水たまりが残り、傾いた電柱の影を歪めていた。湿った空気がまとわりつくたびに、服の内側がじっとりと冷える。

 

 商店街のアーケードは、昼時だというのに人影がまばらだった。シャッターを下ろしたままの店も多く、営業中の看板もどこか頼りない。時間が取り残されたような通りだ。そこに、かすかに風鈴の音が混じっていた。

 

 錆びた鉄のフレームに吊るされた風鈴が、かすかな風で震えている。音が、遠くから呼ばれているような錯覚を与える。誰かの記憶に入り込んだような質感だった。

 

 歩きながら、ポケットに入れていた端末を取り出す。表示された反応値は上昇していた。写本の気配は、間違いなくこのあたりにある。

 

「——ここか?」

 

 不意に立ち止まると、横にいた轟が問いかけた。返事をするかわりに、アーケードの一角を指差す。

 

 古書店だった建物だ。看板は色褪せ、窓ガラスの内側は埃で白く濁っていた。営業している気配はまるでない。だが、入口の扉には、小さな“印”が浮かんでいた。目を凝らさなければ見えないほどの淡い明滅。それでも、確かにそこにある。

 

 端末の反応も、この建物の前で最大値を記録していた。

 

 一歩、足を踏み出す。

 

 だが次の瞬間、胸の奥に鈍い抵抗のようなものが広がった。理由のわからない違和感。空気が変わる。あの草原の風を思い出す。乾いた草の匂い、遠くで響く風の音。そうした記憶が、何の前触れもなく肌に重なってくる。

 

 それは、この場にそぐわない感覚だった。だからこそ、どこか懐かしい。

 

「……見えてるのか?」

 

 背後から聞こえた轟の声に、振り返ることはしなかった。

 

 見えているのか。何を、とは言われなかった。それでも、言いたいことはわかっていた。

 

 この扉の先に、“何か”がある。——そのことを自分は、最初から知っていた。

 

 ◇◇◇

 

 扉の鍵は壊れていた。

 

 轟がためらいなく手をかけると、鈍い音とともに重たい木製の扉が開いた。内部には電気の通った気配がなく、曇ったガラスから差し込む自然光だけが、埃まみれの床を照らしている。

 

 足を踏み入れると、かすかに紙と湿気の混じった匂いが鼻を刺した。書棚はすでに空だった。いや、空というよりは“拭われた”ような奇妙な清潔さがある。時間が止まったような静寂。すべてが、触れることを拒むように沈黙していた。

 

 奥へ進む。古びたカウンターを抜けた先に、ぽっかりと開いた空間があった。

 

 そこだけ、空気が違っていた。

 

 乾いている。温度が低い。肌を撫でる流れが、まるで草原にいたときのようだった。音はない。だが、耳の奥に何かが残っている気がする——風のうねり、名のつかない囁き。

 

 壁の一角に、何かが焦げついていた。

 

 いや、正確には“焼けた跡”ではなかった。黒く、細かい線が織り重なるように広がり、文章とも模様ともつかないそれは、目を凝らすほどに意味を持ち始める。読めるようで読めない。だが、理解できてしまう。そういう種類のもの。

 

 指先が、勝手に伸びる。触れた瞬間、視界が反転した。

 

 ふわりと身体が浮いた感覚。遠くから、風の音。湿ったアスファルトが、一瞬だけ草の感触に変わる。空が近い。眩しい緑。あの草原——

 

「……おい」

 

 声で意識が引き戻された。

 

 足元が揺れるような錯覚の中で、ようやく現実の重力を取り戻す。轟がこちらを見ていた。口元に、わずかに緊張が残っている。

 

「やっぱり、あんた……“こっち側”の人間じゃない」

 

 その言葉は、判断でもなければ疑いでもなかった。ただ、事実として口にされた。

 

 否定する言葉は浮かばなかった。触れたものが“写本”そのものだったという確信と、それ以上に、今この空間が“地獄”と地続きであることを、身体の奥が理解していた。

 

 ここは、現世ではない。

 けれど、地獄でもない。

 ——どちらでもある。

 

 ◇◇◇

 

 建物を出たとき、空はさらに薄く色を変えていた。

 

 太陽の輪郭は見えないままだったが、雲の向こうから淡い光が滲んでいた。濡れたアスファルトが鈍く反射している。踏みしめるたびに靴底が水を含んだ音を立てた。

 

 胸ポケットの端末が、かすかに振動した。

 

 取り出すと、画面が自動的に起動する。ログの通知がひとつ。見覚えのないナンバーだった。

 

《#1377 接続準備完了》

 タップする前に、映像が勝手に再生され始めた。

 

 画面いっぱいに、草原が映る。地平線の果てまで続くような風景。どこかで見た、けれど確実に“同じではない”草原だった。前よりも明るい。風の動きが速い。遠くに人影がある。

 

 その人物は、こちらに背を向けて立っていた。

 

 白いシャツ。黒いスラックス。だが、動き方が自分と同じだった。背格好も、髪の癖も。風に揺れる姿は、まるで——

 

 もう一人の、自分。

 

 その影がゆっくりと振り返ろうとした瞬間、映像が不意に乱れた。砂嵐のようなノイズが走り、画面は暗転する。再生が止まったわけではない。光だけが消え、音が消えた。

 

 そのままの画面を見つめていると、背後から声がした。

 

「……接続されてるんじゃない」

 

 轟だった。彼は煙草を取り出すでもなく、ポケットに手を入れたまま言葉を続ける。

 

「お前、もう“接続する側”になってきてる。自覚、あるんだろ?」

 

 返す言葉がなかった。

 

 草原に立っていたのは自分だ。確かに、自分自身だった。だが、それはもう、ただの“投影”ではない。あれは記録ではなく、生成された映像でもない。

 

 ——今まさに、どこかで接続されている“現在”だった。

 

 観測される立場から、観測する立場へ。

 呼ばれる側から、呼ぶ側へ。

 

 何かが、ゆっくりと反転しはじめていた。

 

 ◇◇◇

 

 端末の画面に、再び通知が現れた。

 

《写本断片:分割取得(1/2)》

《補完断片:未回収》

《次の反応点、座標解析中……》

 テキストは淡く明滅していた。まるで次の接続が、すでにどこかで準備されているかのように。

 

「……一冊じゃないってことか」

 

 小さくつぶやくと、轟がうなずいた。

 その表情には、意外さはなかった。

 

「写本ってのは、記録じゃなくて痕跡だ。分かれてる方が自然って話もある」

 

 痕跡。情報ではなく、起点。あるいは歪みの名残。

 草原の記憶と、地獄の構造と、自分の中にある“声”がひとつに重なってくる。

 

 ふたりでゆっくりと歩き出す。商店街の端にあるアーケードを抜ける頃には、空はだいぶ明るくなっていた。

 

 だが、違和感は消えていなかった。

 

 ふと、背後を振り返る。廃ビルの窓——その二階のガラスの向こうに、何かが立っていた。

 

 逆光で顔までは見えない。

 けれど、それは明らかに“こちら”を見ていた。

 

 輪郭が曖昧だった。髪も、服も、性別すら定かではない。けれど、心のどこかが理解していた。

 

 ——あれは、“観測者”の側にいる存在だ。

 

 次の瞬間、耳の奥で何かが弾けた。時間がわずかにずれるような、気圧の反転。

 

 そして——声が届いた。

 

「……ととさま?」

 それは、あまりにも懐かしく、あまりにも確かな声だった。

 

 はな。

 

 名を呼ばれたわけではない。それでも、その声音に、疑いようがなかった。

 心臓が、ひとつ、大きく打つ。

 

 端末の画面が再び点滅し、最後のログが浮かび上がる。

 

《接続予定時刻:04:44》

 その時刻を見た瞬間、またあの風が吹いたような気がした。

 草原の空気が、現世の街角にまで染み出してくる。

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