地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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 階段を降りるたびに、空気が重くなっていくのを感じた。

 廃業したビジネスホテルの地下──もとは宴会場だったらしいこの場所は、今や名前だけが残った空洞だった。

 

 壁紙は剥がれ、天井にはカビの斑点が広がっている。

 誰もいないはずの空間なのに、どこかで誰かがこちらを見ているような気配が絶えず背後にまとわりついていた。

 

 写本の断片は、すでに手に入れている。

 それなのに、端末はなおも反応を続けていた。

 光の粒が散るように、感度表示が上下を繰り返し、まるで“何か”が近づいているのだと警告しているようだった。

 

「……写本以外の反応だな」

 

 背後から轟の声が低く響く。

 足音を一歩進めるごとに、耳の奥がじんわりと痺れていく。

 音は歪み、光は深度を失い、遠近感が狂い始めた。

 

 そのとき、視界の右隅で、空間がかすかに波打った。

 

 振り返ると、そこに“扉”があった。

 金属製でも木製でもない。物質としての輪郭を欠いたまま、空間の裏側に切り取られたかのような、奇妙な存在だった。

 

「ここだ」

 

 轟が隣で足を止めた。

 床には不規則に刻まれた線刻のようなものがあり、それが周囲の壁や天井にまで滲んでいる。

 写本の中で見た記号の一部と一致していた。

 

「ここが、接続点だった場所……?」

 

「かつて、一度だけ開いた。いや、開けてしまったと言うべきか」

 

 轟は肩にかけていた小さな装置を操作した。

 写本の断片を読み取った記録装置が、再び明滅を始める。

 

「……記録には残らなかった。だが、“向こう側”は確かに存在していた。彼岸だ。あれは、地獄とも現世とも違う」

 

 目の前の“扉”を見つめる。

 そこには何もない。ただの空気。

 だが、その“空気”が──こちら側とあちら側を隔てているのだと、体が理解している。

 

 ◇◇◇

 

 端末の画面が急にノイズを走らせた。

 数列が暴れ、記号が歪み、赤い警告音が一瞬だけ響いたかと思うと、すぐに収まる。

 

 表示が変わっていた。

 

《次回接続予定時刻:04:44》

《残り接続猶予:00:17》

《変換進行度:26%》

《視認不能ログ検出:#0067観測者/記録不完全》

《対象:はな/最終観測地:該当せず》

 

「該当せず」の文字が、なぜかやけに大きく感じられた。

 

 ──該当しない、というのはつまり、記録から“外れた”ということだ。

 

 観測されず、記録されず、存在そのものが分類不能の状態にある。

“はな”の名前がここにあるということは、かつては観測可能な場所にいた。だが今は、もう違う。

 

「戻るなら、今だ」

 

 轟が言う。

 振り返ると、まだ地獄への道は閉じていない。

 だが、迷いはあった。

 

 扉の前に立つ。

 見えない境界に手を伸ばす。

 指先が触れたか触れないか、その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

 

 ◇◇◇

 

 ──風が吹く。

 

 草原が広がっていた。

 以前見たものとよく似ている。だが違う。

 草の色がわずかに褪せ、空の音が遠い。

 

 中央に、小さな人形がぽつんと落ちている。

 手足の綿が少しだけはみ出し、片耳が千切れかかっていた。

 見覚えがある。だが名前が思い出せない。

 

「……どうして、迎えに来てくれなかったの?」

 

 誰かの声。少女のようで、しかし年齢の概念が適用できない、そういう種類の声だった。

 

 答えようとしたが、口が動かなかった。

 風が強くなり、草がざわざわと揺れる。

 何かが遠くから近づいてくる気配があった。

 

 視界の隅に数字が浮かび上がる。

 

 ──0067。

 

 その瞬間、意識が跳ね返された。

 

 ◇◇◇

 

「……起きろ」

 

 誰かに肩を揺さぶられている。

 目を開けると、轟がのぞき込んでいた。

 重たいまぶた。冷たい額。喉がからからに乾いている。

 

 空間は元に戻っている。

 扉はすでに見えなくなっていた。

 

「……扉、閉じた?」

 

「ああ。おまえが意識を失う直前、強制遮断が入った。ギリギリだったな」

 

 立ち上がろうとしたとき、左手の甲に違和感を感じた。

 見下ろすと、そこに黒インクのような線が刻まれているのがわかった。

 

 円環のような記号と、縦に割れた楕円。そして、数字。

 

 0067

 

 誰かに書かれた記憶はない。

 だが、確かにそこにある。

 皮膚の上ではなく、皮膚の内側から浮かび上がってきたかのように。

 

 ──写本ではない。記録でもない。

“扉”を通じて何かが、こちら側に滲み始めている。

 

「……見え方が、変わってきてる」

 

 その言葉が、自分の声だったのかどうか、判別できなかった。

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