地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

141 / 186
接続

 廃ビルの天井は低く、わずかに傾いたコンクリートの梁から古びた蛍光灯がぶら下がっている。電気が通っていないのは当然として、午後三時を少し回った時刻、窓際に散らばるガラス片を淡く自然光が照らしていた。

 

 その光の中、小さな破片がひとつ、転がっている。

 

 写本のカケラだった。

 前回の接続で回収された同種のもの。端末には既に記録され、封印も済んでいるはずだった。なのに、それがここにある意味が分からなかった。

 

 指先を伸ばしかけて、やめた。

 見覚えのある質感。かすかに滲む青白い光。それがわずかに震えている。

 

 足音が近づく。廊下の向こうから轟がゆっくりと現れた。肩越しに外の気配を確かめながら、歩みを進めてくる。

 

「見つけたか」短く言い、隣に立つ。彼もまた、その写本の破片を見下ろしていた。

 

「記録済みの断片が、ここに再出現した例はあったか?」

 

「観測ログにはない。前回の接続に付随した“尾”かもしれない」

 

“尾”の意味がすぐには飲み込めなかった。余波か、何かがこちら側に食い込んだ痕跡か。言葉は曖昧のままだった。端末に視線を移すと、新たな数値が加算されている。

 

《変換進行度 22.3%》

 

 前回より少し増えている。

 ここで特に動きがあったわけではないのに、数値が動いた理由はひとつしか思い浮かばなかった。

 

「写本そのものが観測と連動している?」

 

 轟は無言で小さく頷いた。

 

「写本は媒介だが、それだけではない。すでに“構造”の一部だ」

 

 その語尾はかすかに沈み、何かを隠しているわけではないが話すには時期尚早のように感じられた。

 

 破片を慎重に拾い上げる。掌に触れる感触は紙でも金属でもない、情報そのもののようだった。触れた瞬間、皮膚の奥にざらついた刺激が走り、脳裏に断片的な風景が差し込んだ。

 

 風に揺れる草原。立ち尽くす人の影。音を発しない言葉の羅列。

 

 一瞬で消えた。

 手の中にあるのはただの破片。だが、確かに何かがこちらを覗いている気配を感じた。

 

「これを次の接続点に持ち込むのか?」

 

 問いかけに、轟は小さく笑う。肯定も否定もせず、ただ目を合わせてきた。

 

 廃墟の空気がじわりと重くなる。

 封じたはずの記録が再び姿を現すということは、“こちら側”の時間が巻き戻されつつあるのだろう。

 

 あるいは、“誰か”がそれを望んでいるのかもしれない。

 

 ◇◇◇

 

 ビルの外壁に沿って、かつて荷捌きに使われていたと思しき通路を進む。鉄製の扉が錆びついた音を立てて揺れる。足元の水たまりに、割れた窓ガラスの欠片が沈んでいる。

 

 敷地の隅にある搬入口。シャッターの脇には、小さな出入り口があった。鍵は壊れており、扉の縁にはかすかな焦げ跡が残っている。誰かが無理やりこじ開けたように見えた。

 

 手を添えて、静かに押し開ける。金属の軋みが内部の沈黙を破る。

 

 ビルの中は、しんと冷えきっていた。

 

 広い空間。かつて倉庫だったのだろう。床には埃が積もり、空になった棚が無造作に並んでいる。壁際の制御盤にはコードが何本も伸びており、その先には赤茶けた端末が鎮座していた。

 

 その中央に、かつての観測記録がむき出しの状態で残されている。

 

 踏み込んだ瞬間、胸の奥で何かが鳴った。

 

 記憶でも、音でもない。鼓動のような、もっと根源的な振動。背筋を撫でるように静かに上昇していく。

 

「……ここだな」

 

 落ち着いた声が背後から響く。振り返ると、轟が立ち止まっていた。

 

 彼の視線は部屋の一角に向けられていた。そこだけ空間が歪んでいるように感じる。視界の端に、ゆらぎのようなものがあった。まるで古い映写機がフィルムを巻き戻しているような、ざらついた干渉。

 

 その中心に、何かが――

 

 否。誰かがいる。

 

 見えているのではなく、知覚しているという方が近かった。そこに在るはずのないものが、感覚の網に引っかかる。姿形は不明瞭なのに、輪郭だけが焼き付く。

 

「……写本のカケラだ」

 

 轟が呟くように言う。

 

 それはカケラなどという簡単な質量ではなかった。脈動するような気配が、じわじわと空気を濁らせていた。

 

 そのすぐ隣、埃をかぶった卓上のモニターがかすかに光っていた。

 

 電源は入っていないはずなのに。

 

 その画面に、ノイズ混じりの波形が現れ、数字がひとつずつ刻まれていく。

 

「04:43:57」

 

 次の接続予定時刻が目前に迫っている。

 

 息を呑んだ。

 

 轟も無言で懐から端末を取り出す。スクリーンに映った座標が現在地とぴたりと一致している。

 

「……予定通りだ。おそらく、ここで“接続”が起きる」

 

 低く、しかし確かな言葉。

 

 何が来るのか、そのすべてを理解していない。それでも、この空間が境界であることははっきりわかる。現実と非現実のあわい。

 

 ――もうすぐ、始まる。

 

 胸の内で誰かの声がした気がした。

 

 見知らぬものではない。耳ではなく、意識の奥に直接刻まれるような、懐かしくも冷たい声だった。

 

 時刻は「04:44:02」を指していた。

 

 ◇◇◇

 

 埃に覆われた端末の画面がぼんやりと明るくなった。断片的な映像が揺らぎ、光と影が絡み合う。

 

 映像の中央には広大な草原が広がり、風が長い草を揺らしていた。草の間に、白い影が見える。少女の姿だった。

 

 ゆっくりと手を伸ばし、こちらに触れようとしているように見える。しかしその表情は、幸福とも哀しみともつかない複雑なものだった。

 

 視線が少女に釘付けになる。映像がこちらを見返しているような錯覚が胸の奥に広がった。

 

「……はなだ」

 

 声にならない呟きが漏れる。何度も映像を繰り返し見返すうちに、細部が少しずつ明らかになっていく。

 

 彼岸の構造が垣間見えた。草原は現世や地獄とは異なる、境界の領域。観測されない象徴のような場所。

 

 そこにいる“はな”は記録から逃れた存在。だが、接続は続いている。

 

 画面の端に文字列が浮かんだ。

 

《#0067観測者:接続確認》

《観測耐性:極めて不安定》

《接続経路:暫定開通》

 

 端末が吐き出した情報が胸に重くのしかかる。

 

「変換は進んでいる……」

 

 空気が歪み、視界が揺らぐ。身体の一部が震え、左手のひらに冷たい感触が広がった。

 

 目を下ろすと、草原の模様が薄く浮かんでいる。彼岸の風景が皮膚に刻み込まれたかのようだった。

 

 遠くからかすかな声が響いた。

 

「……呼んでいる」

 

 内側の深い闇の底からひとつの声が響く。はな、彼岸からの誘いのような、冷たくも温かい響きだった。

 

 ◇◇◇

 

 夜が更けていく。

 外の世界の喧騒は遠く、廃墟の静寂が身体の芯まで染み込んでいった。

 

 端末を握りしめ、数字が刻々と迫るのを感じている。

「04:44」という数字が、画面に冷たく浮かんでいた。

 

 呼吸が自然と浅くなり、時間の流れが遅く感じられた。

 視界の隅に、草原の風景がかすかに揺れ、誰かの気配が近づく。

 

 端末から波形ノイズが立ち上り、胸の奥を冷たく締めつける。

 

 映像が切り替わる。

 草原の中央、少女の背後に人影が立つ。

 

 姿は輪郭がぼやけて掴みどころがない。

 しかし確かな存在感があった。

 

「……誰だ?」

 

 声に出しそうになるが、言葉は喉の奥で止まった。

 記憶に微かな違和感を残しつつも、懐かしい何かを感じていた。

 

 画面が暗転し、文字が浮かぶ。

 

《接続準備完了》

 

「始まるのか……」

 

 端末を握る手に力が入り、身体の奥から冷たい何かが静かに沸き上がる。

 

 呼吸を整え、次の“彼岸”との接続に身を委ねる決意を固める。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。