時刻が「04:44」を指した瞬間、空気が裂けた。
廃墟の広間に差し込んでいた自然光が反転し、白が黒に、影が光に裏返る。天井から垂れ下がっていた蛍光灯が一斉に点ったように輝き、その輝きは実際には電気の光ではなく、何か別のものだった。
視界が二重にぶれる。
朽ちた倉庫の壁と、風に揺れる草原の斜面が重なり合う。どちらも消えず、どちらも現実のように迫ってくる。
まぶたを閉じても、内側に焼き付いた映像は消えなかった。
耳の奥にノイズが広がる。砂を擦るようなざらつきの中で、声が混ざる。
佐藤さんの声だった。距離のはずれた場所にいるはずなのに、端末を通じてではなく意識の奥に直接響いてくる。
「観測者が……境界を跨いでいます。変換進行度、二十八・七パーセント」
数字が頭の中で反響する。
見下ろすと、手に握った端末のスクリーンにも同じ数値が表示されていた。いつの間にか、波形ノイズが規則的に脈打ち始めている。
轟が隣で何かを叫んだ。声は聞こえるのに意味がつかめない。言葉が水中に沈んでしまったように、音と意味が乖離していた。
足元の床が草に変わった。
乾いた埃を踏んでいたはずの感触が、柔らかく湿った草の葉にすり替わっている。片方の靴底はまだコンクリートを踏んでいるのに、もう片方は草原に沈んでいた。
両方が同時に存在している。
その矛盾が胸を締めつける。呼吸の浅さが増し、視界の端で暗い影が立ち上がる。
接続が始まったのだと、直感した。
◇◇◇
草原の風が頬を撫でた。
廃墟の冷え切った空気と同時に吹きつけ、熱と冷たさが矛盾したまま肌に刻み込まれる。
視界が揺れ、草の波が広がった。
その中央に、小さな影が立っている。
――はな。
声にはならなかった。胸の奥でただ名を呼んだだけだったのに、影はゆっくりと顔を上げた。
白い輪郭が光に溶け、表情がかすかに浮かび上がる。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
唇が動いている。音は届かない。それでも意味だけが直に流れ込んでくる。
こちらに来て、と。
あるいは、戻ってきて、と。
解釈は二つに割れた。どちらなのか決めきれない。
だが胸の奥に響いた響きは、抗えないほど切実だった。
――その背後に、もうひとつの気配がある。
はなの肩越しに立つ影。
輪郭は揺らぎ、姿は曖昧なのに、目だけがはっきりとこちらを見ていた。
息を呑む。
それは他でもない、自分に似た姿だった。
草原と廃墟が重なる視界の中で、影と視線が交わった。
胸の奥に鋭い痛みが走り、脳裏の記憶がばらばらに引き裂かれる。
――はなと並んで歩いたはずの道が、草に覆われている。
――聞き覚えのある声が、別の言葉にすり替えられている。
記憶が改竄されていく。
呼吸が乱れ、足元の地面がどちらなのか判別できなくなる。
その瞬間、端末の画面に新しい文字列が浮かんだ。
《#0067 観測者:接触確認》
草原に立つはなの姿と、背後に並ぶ“もうひとり”が、確かな現実として焼き付いていた。
◇◇◇
画面に刻まれた《接触確認》の文字が、視界の奥で脈打つ。
その鼓動に呼応するように、左手のひらが熱を帯びた。
皮膚の下に、草原の模様が浮かんでいく。
風に揺れる草が、肉の上を走る血管のように枝分かれし、青白く光を放っていた。
影が一歩、前へ出た。
廃墟の埃を踏む音と、草を踏みしめる音が同時に響く。
どちらが現実か分からない。どちらも確かに足音だった。
目の前に立ったそれは、やはり“自分”に似ていた。
顔の輪郭も背格好も曖昧なのに、視線だけが重なった。
内側を覗かれている。
記憶の奥に沈めてきた何かを、勝手に掘り起こされているようだった。
「……お前は」
声に出した瞬間、喉に冷たい刃を差し込まれたような痛みが走る。
声は音にならず、影の口から代わりに発せられた。
「――観測者」
自分の声だった。
ぞっとするほど、間違いなく。
端末がけたたましい警告音を放った。
《変換進行度 33.1%》
数字が跳ね上がる。
轟の姿が遠のいた。
彼は何かを叫び、端末をこちらに突き出している。だが声は砂嵐の向こうに消えていく。
草原が、広がっていく。
廃墟の壁が溶け、天井が風に散る。
足元から一歩でも進めば、完全に向こうへ呑まれる。
はながこちらを見ていた。
影と並んで、同じ距離に立っている。
微笑んでいるのか、泣いているのか。
ただ確かなのは、その眼差しに抗いようのない引力が宿っていることだった。
身体の奥で、もうひとつの声が囁いた。
――進め。
――それが、お前の役割だ。
意識が揺らぐ。
手のひらの光が強く脈打ち、草原の風が全身を撫でていく。
次の瞬間、足は無意識に一歩を踏み出していた。
◇◇◇
一歩、草原に足を踏み入れた瞬間――世界がきしんだ。
廃墟の床が割れ、埃が草に溶け、鉄骨が風に散っていく。
すべての境界が曖昧になり、現実が崩れ落ちていく。
轟の叫び声だけが、かろうじてこちらに届いた。
「――戻れ!」
その声に振り返ろうとしたが、足はもう前へと引かれていた。
はなが、手を差し伸べている。
白い指先が揺れ、草の中に浮かんでいた。
その瞳には、深い哀しみと微かな安堵が同居している。
隣に立つ“もうひとりの自分”が、無表情のまま口を開いた。
「観測者は二度、選ばれる」
その言葉に合わせるように、端末の画面が明滅する。
《選択肢:接続/遮断》
《観測耐性:不安定》
数値が次々と跳ね上がり、変換は止まらない。
《変換進行度 41.7%》
心臓が重く、痛みを伴って打ち鳴らされた。
進めば彼岸。戻れば地獄。
どちらにせよ、後戻りはできない。
――はなを、置いていくのか。
――自分を、置いていくのか。
廃墟の闇と草原の光、その境界線に立ちながら、呼吸が浅くなる。
時刻が「04:44:44」を示した瞬間、空間が裂けるような振動に包まれた。
轟の声が最後に届いた。
「早く選べ!」
草原に伸びる手と、廃墟に残る声。
狭間に立つ身体が、二つに引き裂かれる。
――次の瞬間、光が視界を覆った。