光が収まった時、足元には柔らかな草が広がっていた。
さっきまでの廃墟の埃っぽさも鉄の匂いもない。
風が吹き抜け、草が波のように揺れる。
耳を澄ませば、風と草擦れの音だけが続く。
鳥も虫もいない。生命の気配が極端に欠落しているのに、不思議と寂しさはなかった。
遠くに白い影が立っていた。
はな、だった。
こちらを見ている。
だが表情は掴めない。笑っているようにも、泣いているようにも見える。
声を出そうとした瞬間、喉が震え、胸の奥から別の声が漏れた。
「……ここが、境界」
自分のものなのに、自分の意志ではない声。
振り返ると、すぐ背後に“もうひとり”が立っていた。
輪郭は相変わらずぼやけている。だが、その存在感は自分自身よりも強烈だった。
彼は静かに言う。
「観測者は、この地を通じて形を変える」
その言葉と同時に、空気がざわめいた。
草の先端に光が集まり、青白い模様が地表に浮かび上がっていく。
それは円形の構造体。儀式の陣のようであり、写本の断片に刻まれていた模様と酷似していた。
胸の奥がざわつく。
――ここは本当に“彼岸”なのか?
――それとも、写本に作られた模造の領域なのか?
はなが静かに歩み寄る。
そのたびに草が波紋のように広がり、円環の光と重なって揺れた。
「……来てくれたんだね」
ようやく聞こえたはなの声は、懐かしい響きを帯びていた。
風よりも柔らかく、しかし胸の奥を鋭く突き刺す。
次の瞬間、頭の内側に直接文字が刻まれた。
《接続経路:安定化開始》
《変換進行度 52.9%》
――もう戻れない。
◇◇◇
はなの声が風に溶けて、胸に沈んでいく。
目の前に立つ彼女は、確かに“はな”だった。
だが、同時にどこか別のものでもあった。
その瞳の奥には、こちらを見ているはずなのに、無数の視線が折り重なっているような圧があった。
観測する者と、観測される者が同時に存在している。
「……ここは何なんだ」
思わず問いかける。はなは少し首をかしげ、草の海に視線を落とした。
「境界だよ。死んだ人も、生きている人も、まだ決まってない人も、みんな通りすぎていく場所」
彼女が一歩踏み出すと、草原の模様が波打ち、円環の光がさらに明るくなった。
端末が勝手に起動し、画面に数値が走る。
《#0067観測者:接続強度上昇》
《耐性:臨界値に接近》
掌に冷たい痛みが走った。
見ると、皮膚の下に青白い線が広がっている。
それはまるで写本の模様が肉体に刻まれていくようだった。
「やめろ……!」
思わず叫ぶと、はなは小さく首を振った。
「もう始まってるの。止めることはできない。……でも、選ぶことはできる」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「選ぶ……?」
「あなたがどちらの側に残るのか。現世に縛られるのか、それとも彼岸の構造の一部になるのか」
彼女は真っ直ぐにこちらを見つめた。
その瞳は揺れていた。
止めたいのか、導きたいのか、判断がつかない。
ふと視界の端に、背後の“もうひとりの自分”が映る。
彼はただ無表情で草原を見渡していた。
やがて、低い声で言う。
「選択は錯覚だ。本質はすでに決まっている」
はなが振り返る。
その瞬間、二人の視線が交わり、草原の空気が凍りついた。
《変換進行度 66.6%》
端末の数値が赤く明滅した。
◇◇◇
草原を渡る風が止んだ。音が消え、空間そのものが張り詰める。
はなと“もうひとり”が向かい合い、視線を交わしたまま動かない。
その間に立つ自分の身体が、二つに引き裂かれるように軋む。
――どちらも、自分をこちら側に引き寄せようとしている。
「彼はまだ選べる」
はなが静かに言う。その声は震えていた。
「いや」
“もうひとり”が低く答える。
「選択の余地などない。観測の始まりと同時に、結果は収束する。……お前が彼に見せているのは、ただの幻だ」
はなの表情が歪む。
怒りとも、哀しみともつかない複雑な感情が揺らいだ。
「幻じゃない……! ここは確かに境界。まだ形を選べる場所!」
その声に呼応するように、草原の地面がざわめいた。
草が一斉に逆立ち、青白い光が地中から迸る。
浮かび上がったのは巨大な紋様――写本の断片を無数に組み合わせたような、巨大な陣形だった。
端末が熱を帯び、手の中で震える。
《観測強度:異常上昇》
《変換進行度 74.1%》
視界が揺らぎ、草原の景色が二重写しになる。
片方には柔らかな光と風が流れる原野。
もう片方には瓦礫と炎に覆われた地獄の景色。
「……っ」
頭が割れるように痛む。
境界が崩れ、二つの世界が重なり始めている。
“もうひとり”がこちらを見据える。
「見ろ。これが真実だ。境界は存在しない。あるのは常に収束だけだ」
はなが一歩前に出る。
その声は必死だった。
「収束なんて信じないで。あなたは――あなた自身で決められる!」
言葉が胸を突き刺す。
しかし同時に、端末の画面が赤く点滅し、無機質な音声が響いた。
《選択フェーズ突入》
《観測者は経路を確定してください》
目の前に広がるのは二つの道。
光に揺れる草原と、炎に覆われた地獄。
足が震える。
どちらに進むのか――
あるいは、どちらにも進まないのか。
◇◇◇
端末の表示が強烈な光を放ち、視界全体が白に覆われた。
時間が止まったように、風も草も、はなも“もうひとり”も動かない。
ただ、胸の奥で心臓だけが高鳴っていた。
《経路選択を確定してください》
無機質な声が、耳ではなく意識の底から響く。
――選べ。
――決めろ。
目の前に広がる二つの道。
光の草原か、炎の地獄か。
どちらかを踏み出せば、もう戻れないことは分かっていた。
だが、足は動かなかった。
どちらに進んでも、自分が「収束」に呑み込まれる予感があったからだ。
その瞬間――はなが叫んだ。
「どちらも選ばなくていい! 境界に立ち続けて!」
彼女の声が空気を震わせ、停止していた草が一斉に揺れる。
端末が甲高い音を立て、赤いエラーを吐き出した。
《選択フェーズ異常》
《経路未確定――観測不能領域に移行》
光と炎がせめぎ合い、世界が大きく軋む。
草原が裂け、地獄の炎が吹き出し、二つの景色が渦を巻くように混じり合った。
“もうひとり”が冷たい声を放つ。
「愚かだ……収束を拒めば、存在は分解されるだけだ」
はなは振り返り、まっすぐこちらを見た。
「それでも――まだ“君自身”でいられる」
その言葉に、胸の奥が震えた。
次の瞬間、全身を強烈な風が打ち抜く。
光と炎が渦を巻き、意識が裂かれる。
視界が白く弾け――
気がつくと、自分は廃ビルの床に膝をついていた。
端末はまだ手の中にあり、画面には不穏な文字列が流れていた。
《観測結果:未確定》
《変換進行度 ???.?%》
数字は乱れ、固定されない。
収束せずに残った、あり得ない状態。
隣で轟がこちらを見下ろしていた。
その顔に、わずかな驚きと――安堵が混じっていた。
「……戻ってきたな」
だが胸の奥では、はなの声がまだ響いていた。
境界に立ち続けろ、と。