瞼を押し開けると、湿った闇がすぐそこにあった。
ひび割れた天井の隙間から落ちてくる埃が、光もない空気の中で舞っている。
すぐ傍で声が落ちた。
「……気づいたか」
轟の影が覗き込んでいた。目の奥にわずかな緊張がにじんでいる。
「急に倒れたぞ。しばらく動かなかった」
頭の奥で鈍い音が響く。草原の光景は、もう指の間から零れ落ちる水のように遠ざかっていた。
胸の内に残っているのは、言いようのない違和感だけだ。
手にした端末が震えている。
画面には無機質な文字が浮かんでいた。
《#0067接続ログ》
《変換進行度:42%》
その数値を眺めているだけで、喉の奥に冷たいものが絡みつく。
進行度は止まることなく、自分の中で膨らみを増している。
「……草原を見た」
口に出した瞬間、自分の声が少し違って響いた。薄い膜を隔てて届いてくるようで、どこか他人の声にも似ていた。
轟は眉をひそめる。
「草原?」
言葉を重ねる。
揺れる草の海。重なる地獄の景色。中央に立っていた、人影のような存在。
それらを断片的に並べたが、説明すればするほど意味が擦り減っていく。
轟は黙って聞いていた。
やがて、低い声で言う。
「……俺には見えないものなんだな」
その言葉が、じわりと胸を沈める。
接続しているのは自分だけ。轟はただ隣にいるだけで、何も共有していない。
端末の画面が一瞬揺れ、《ログ保存完了》と無感情な表示が流れた。
まるで二人の会話すら、冷たい記録の一部として処理されていくようだった。
◇◇◇
階段を下りると、地下に溜まった冷気が肌を刺した。
湿ったコンクリートの匂いが鼻腔にこびりつく。
薄暗い廊下の壁には、鋭い線が刻まれていた。爪か刃物で削ったような傷。一定の間隔で繰り返され、印のように並んでいる。
すぐに、人為的なものだと分かった。ここに来た誰かが、帰る保証もなく残した痕跡だ。
轟が指先でなぞり、短く吐き出す。
「まだ奥があるな」
返す言葉はなかった。喉の奥で言葉がまとまる前に、端末が微かに震える。
液晶には冷ややかな表示が浮かぶ。
《次の接続予定時刻:05:05》
午前五時五分。夜明け前。
その数字を見ただけで、肺の奥に氷を押し込まれたような息苦しさが広がる。
轟が肩越しに画面を覗き、ぼそりと呟く。
「夜明け前ってのが一番いやな時間だ」
答えを探せず、ただ暗闇を睨む。沈黙だけが二人の間に落ちた。
奥へ進むほど、空気は重くなる。
息を吸い込むたび、胸の奥が締めつけられるようだ。内なる感覚が、確実に変化していくのが分かる。
轟の声が、耳の奥で光の粒子となってちらつき、微かに揺れる。
湿った地下の匂いが、文字になって脳裏に浮かび上がる。
すべてが現実ではない感覚。理性はざわつき、必死に抵抗するが、身体は次第にその世界に馴染んでいく。
轟が振り返り、声をかける。
「無理すんな」
返事をする余裕はない。視界の片隅で端末が淡く点滅し、《進行度更新:43%》と冷たい文字を刻む。
進行は止まらない。ただ数字だけが、事実として示される。
地下の奥で、わずかな鉄扉が姿を現した。
小さく、ひっそりと、しかし確実に存在感を放つ。
扉の隙間から漂う気配に、胸がざわつく。
ただの風ではない。呼ばれている、という感覚。
轟は扉の前で立ち止まり、視線を交わす。
言葉はなく、ただ二人の呼吸だけが冷たい空気の中で鳴る。
鉄扉の奥から、何かが待っている。
そんな気がするのはなぜだろうか。