地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

145 / 186


 薄暗い通路の先に、ひとつだけ小さな扉があった。金属製の取っ手は錆びつき、表面には長い年月の埃が積もっている。息を吸い込むと、少しだけカビ臭さと鉄の匂いが混ざった冷たい空気が鼻腔を突いた。

 

 慎重に手を伸ばし、扉を押す。小さな金属音が静寂に溶け込む。開いた瞬間、わずかな隙間から白い光が差し込み、箱の輪郭が浮かび上がった。床には埃が舞い、微かにカサカサと音を立てる。

 

 箱は予想より小さく、木製の蓋がわずかに反り返っている。その上にはほこりが積もり、周囲の影に溶け込むように置かれていた。手元に近づくと、蓋の隙間から淡く緑がかった液体が見えた。ホルマリンの匂いが鼻を突き、息が一瞬詰まる。

 

 蓋を押し開けると、中には胎児のような小さな存在が、透明な液体に沈んでいる。体は小さく、まだ形になりかけの指や顔の輪郭が浮かび上がる。その光景は、まるで時間の流れが止まったように静かで、しかし胸の奥に重く鈍い衝撃を与えた。

 

 端末の画面がかすかに光を反射し、数字や文字は無情にも何も語らない。ただ、目の前の現実だけが、冷たく、しかしあまりに鮮明に存在していた。

 

 箱の中の胎児を見つめる視線が、どうにも離れない。透明なホルマリンの液体に包まれた小さな存在は、まるで眠るように静かで、しかしその無抵抗さが逆に胸の奥に重く刺さる。

 

 冷たい空気が通路に漂い、肩のあたりにぞわりとした寒気が走る。手を伸ばして箱に触れようとすると、皮膚を通して液体の冷たさが伝わるかのような錯覚に囚われた。指先をかすかに触れさせるだけで、心臓が異常なまでに早鐘のように打つ。

 

 目を離そうとしても、どうしても胎児の輪郭に視線が吸い寄せられる。小さな手足の形、かすかな輪郭、まだ完全ではない顔の造形――これがただの標本なのか、それともどこか生きていた痕跡なのか、判断がつかない。

 

 視界の隅で端末が微かに点滅し、数字や文字が意味のない速さで流れる。だが、画面の冷たい光も、この胸のざわめきを止めることはできなかった。何かが、この箱の中に封じられている。いや、封じられているのではなく、こちらを試しているかのような気配さえあった。

 

 奥歯を噛みしめ、息を整えようとするも、喉の奥が詰まる感覚が消えない。指先に力を入れ、箱の蓋を再び押さえた瞬間、胸の奥にざらりとした感触が走る。心臓だけでなく、意識の奥深くまで、何かが揺さぶられた。

 

 薄暗い通路に、ホルマリンの匂いと冷たさだけが残り、静寂はより深く、重く沈み込む。目の前の小さな箱は、ただの物体ではなく、ここに立つ者に問いかけるように、静かに存在していた。

 

 通路の奥に、ほのかに赤みを帯びた光が漏れていることに気づく。足を進めるたびに、冷たいコンクリートの床が足裏を刺すように感じ、胸の奥で何かがざわめく。箱の胎児の像が、まだ視界の片隅にちらつき、思考を締め付ける。

 

 光源の先には、もう一つの箱が置かれていた。前のものより小ぶりで、しかし液体に浮かぶ中の形は明らかに異質だ。微かに揺れる影、かすかな呼吸のように見える液面の波紋――それが、本当に生きているのか、ただの光の揺らぎか、判断がつかない。

 

 端末が再び点滅する。数字が高速で流れ、意味を持たない羅列のように見える。しかしその中に、ひとつだけ目を引く文字列が現れた。画面を覗き込むと、「#HANA」と浮かび上がる。胸の奥で、何かがぎゅっと締め付けられる。

 

 立ち止まり、息を整えようとするも、肺の奥が押しつぶされるように苦しい。手を握りしめ、冷たい汗が背中を伝う。箱の中の存在は、静かに、しかし確実にこちらを見ているかのようだった。視線が交わった瞬間、意識の深いところで、確かな違和感が走る。

 

「……これは、ただの標本じゃない」

 

 言葉にせずとも、胸の奥で確信が芽生える。目の前の存在は、これまでの観測記録にない何かであり、ここに立つ者の心を試すかのように、静かにその場に佇んでいた。

 冷たい光と沈黙の中、次の一歩を踏み出すか、立ち止まるか。選択の余地は、すでに限られている。

 

 足を一歩前に出すたび、床がきしむ音が廊下に反響する。呼吸が荒くなる。箱の中の液体が微かに揺れ、光を受けて虹色に反射する。その中に、確かに小さな人影があった。

 

 その存在は、言葉では説明できないほど微細で、しかし確実に「ここにいる」と感じさせる生命の気配を放っていた。手を伸ばすと、冷たい空気の壁を越え、指先にほのかな振動が伝わる。箱の中の液体がわずかに波立ち、像がじっとこちらを見つめたまま動かない。

 

 端末が再び光を放ち、文字列がスクロールする。#HANA――。胸の奥に重くのしかかるような思いが押し寄せ、同時に覚悟が定まる。

 

「……はな、か」

 

 声にならない声が漏れる。箱の中の存在は微かに震え、液面に揺れる影が反射して、まるでこちらの呼吸に合わせて応答しているかのようだった。

 

 ゆっくりと手を伸ばし、蓋に触れる。冷たく滑る金属の感触に、心臓の鼓動が一段と早まる。箱の中の液体が小さな波紋を描き、像がじっと見つめる。距離は僅か。しかし、決して近づきすぎてはいけない──そんな緊張感が、身体を固くする。

 

 その瞬間、液体の中で小さな光の粒が散り、箱全体が淡く赤みを帯びる。像は微かに首を傾げるように動き、確かに「生きている」ことを示した。

 冷たい廊下、静寂、そしてほのかな赤い光の中。ついに、#HANAとの接触は始まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。