胎の奥から響く鼓動が、空気全体をゆるやかに震わせていた。
肉を叩くような湿った音が、地面を這い、胸の奥までじわじわと浸み込んでくる。
草原の光景はすでに消え、荒れ果てた地獄の荒野が戻っているはずなのに、視界の端にはまだ緑がちらついている。風に揺れる草の断片が、現実の景色に貼り付いたまま離れない。
その揺らぎと鼓動が重なるたび、空間がわずかにひずむのを感じた。
彼岸との接続が進んでいるのだと、直感だけが告げている。
隣に立つ轟は、表情を動かさぬように固めているが、額には細かな汗が滲んでいた。
強い光にさらされた金属のように、張り詰めた気配が漂っている。
手元の端末が小さく振動し、液晶に文字が浮かぶ。
佐藤の声が機械を通じて響いた。
「今は踏み込まないで。観測だけに留めてください」
淡々とした声音。だがその裏に潜む緊張は、鼓動の震えと同じ重さを持っていた。
胎の表面が、ぬるりと波打った。
次の瞬間、赤黒い皮膜の上に模様のようなものが浮かび上がる。
ただのひび割れに見えたそれは、やがて形を整え、連なった線へと変わっていった。
文字列。
それは写本の中で見た記号に酷似していた。
意味を持たないはずの図形が、ここでは言葉のように並び、呼吸のようなリズムを刻んでいる。
視線を向けた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
目を逸らそうとしても、理解が迫ってくる。
変換が進んでいるせいなのか、文字の意味がかすかに読み取れてしまう。
「選択の門」
「通過の資格」
脳裏に断片的な言葉が焼き付いた。
耳の奥で風が吹き抜ける。現実のものではない、彼岸からの風。
髪が逆立ち、身体の奥まで冷気が入り込む。
理解してはいけないものを理解しつつある――その自覚が、痛みにも似た恐怖となって胸を締めつけた。
「やばい……開きかけてる」
轟が低く呟いた。
後退の動作に入ろうとする気配が隣から伝わってくる。
だが足が動かない。胎の表面から目が離れなかった。
赤黒い皮膜の上に揺らめく文字列。その奥に、影が重なって見えた。
草原の中央に立っていた「誰か」の影が、ここに重なっている。
細い輪郭。小さな肩。
それは「はな」の姿を思わせた。
胸の奥に直感が走る。
離れてはいけない。
ここで目を逸らすことはできない。
影は輪郭だけの存在でありながら、確かにこちらを見つめ返していた。
呼吸を忘れるほどの圧力が空間を満たし、耳鳴りが強くなっていく。
次の瞬間、鼓動が途切れた。
空気を満たしていた震えも消え、荒野に沈黙が降りる。
胎の表面に刻まれていた文字列は、音もなくほどけていき、ただの肉塊のように沈黙した姿へと戻った。
「……収まったか」
轟が小さく息を吐き、肩を落とした。
あたりを包むのは、音のない地獄の荒野。
つい先ほどまでの脈動が嘘のように、風ひとつ吹かない静けさが広がっていた。
だが視界の奥には、なお草原の断片が貼り付いている。
緑の切れ端が現実と重なり、揺らぎ続けている。
胸の奥のざわつきは、静寂に覆われても消えなかった。
手元の端末が、かすかな光を放つ。
液晶には「接続完了」とだけ表示されている。
意味を問いただす間もなく、画面は暗転し、光を失った。
静けさだけが残された。
しかしその静けさこそが、不自然な余韻となって胸を締めつけていた。