胎が沈黙してから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
地獄の底にいるはずなのに、耳を満たす雑音は消えていた。呻き声も、遠くのざわめきもない。ただ、息を吸い込むたびに、空気が澄んでいく感覚だけが残る。
余韻は体の奥にまだ残っていた。
変換のざわめきと、胎が示した何かが重なり、境界の感触が押し広げられる。心臓の鼓動が、やけに遠くで響く。
端末が小さく震え、画面に通信が浮かんだ。
『……大丈夫ですか?』
佐藤さんの声だった。落ち着いた調子なのに、どこかためらいを含んでいる。
返事をしようとしても言葉は喉に引っかかり、体の状態すら把握できないまま時間だけが過ぎていく。
胎の内部で響いた“声”が、まだ耳の奥に残っていた。
輪郭は曖昧で、掴もうとすれば霧のように散っていく。だが、確かに言葉を告げていた。
――選択。
その一語だけが、鮮明に浮かび上がる。
はなの声に似ている気がするが、確信は持てない。胸の奥に染み込む柔らかさと、同時に拒絶する冷たさ。
端末から佐藤さんの声が再び届く。
『次回接続までの猶予は短いようです』
冷静な響きに、わずかな焦りが混じるのが感じられた。
画面に並ぶ数字を見つめる。
“彼岸”との接続が進んでいる――その現実を示す印にほかならなかった。
足音が近づく気配に気づき、振り返ると轟が歩み寄ってきた。
胎の痕跡を確かめるように周囲を見回し、言葉を落とす。
「ここ、わずかに空間の感覚がおかしい……現世なのに、何かが混ざっている気がする」
胸の奥がざわつく。胎の影響が現世の空間にまで及んでいるらしい。
手元の端末が震え、佐藤さんの声が届く。
「写本回収だけでは済まない段階に入っています」
画面越しの淡々とした声に、心臓が早鐘を打つ。
街灯の下や建物の影を見渡す轟の姿を目にしながらも、微かに歪む空間の違和感しか感じられない。
それでも確かに理解した。次の行動は、ただの回収では済まない――意思を伴う決断が必要になる、そんな予感が胸に落ちる。
歩きながら、ふと草原の記憶がよぎった。
胎の奥に重なった光景――柔らかな草の感触と、風に揺れる音。中央には、誰かが立っていた気配があった。
思い出そうとすると、胸の奥でざわめきが強くなる。
視界が一瞬揺れ、足元がふらつきそうになる。
端末越しに佐藤さんの声が響く。
『種田さん、集中してください』
呼びかけで現実に引き戻される。安心感と緊張が入り混じり、息を整えながら立ち止まる。
やはり――選択のときは、すでに始まっていたのだと胸の奥で思う。
次の接続までの猶予はわずかしかない。
深く息を吸い込み、覚悟を決める。向かう現世の道も、胎の向こうの世界も、避けることはできないのだと。