地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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砂を噛む

 雨の匂いが残る街角に立ち、端末の画面をじっと見つめる。回収は終わったはずだ。数字が淡々と並ぶだけの端末に、心の奥で微かに熱が灯る。

 懐に抱えた小さな瓶の重さを、指先で確かめる。ホルマリンに沈む胎児は、光を受けてゆらゆらと揺れる。重く、冷たい、現世のどんな感触とも違う。

 

 通り過ぎる人々の声も、雨に濡れた街路も、どこか遠くに感じられる。胎児の存在が、現世と異界の境界を押し広げるようだ。心の中で静かな安堵と、得体の知れない緊張が交錯する。

 

 端末をもう一度確認すると、次の接続予定時刻が表示されていた。胸の奥で冷たいものがざわめく。これから再び異界へ戻る。重みと光景を抱えたまま、種田はゆっくりと歩き出す。

 

 路地を抜けると、現世の空気が少しずつ薄れていくのがわかった。湿ったアスファルトの匂い、遠くで響く自動車の音、それらがふわりとぼやけて、代わりに冷たい静寂が体を包む。

 

 懐の中の瓶がわずかに揺れ、胎児の小さな姿が光を反射した。冷たさが胸を通り抜け、同時に妙な重みが心に残る。手にあるのは現世のものなのに、こんなにも異界に連れ去られた感覚が強いのはなぜだろう。

 

 空気がねっとりと変わり、足元の地面が柔らかく沈むような感触になる。街灯は消え、遠くで微かに光る異界の色彩が視界を満たした。ここが、地獄の端縁――いや、すでに境界を越えつつあるのかもしれない。

 

 懐に押し当てた瓶をぎゅっと握りしめる。小さな生命のようなその形が、胸の奥でざわめきを起こす。守らなければ、守り続けなければ――重みが、無言でそう告げている。

 

 一歩、また一歩と歩を進めるたび、周囲の景色が歪んでいく。見慣れた街角は霧に溶け、現世と異界の境界がぼんやりと曖昧になった。その瞬間、意識までどこか遠くへ引きずられる感覚に襲われる。

 

 気づくと、すべての音が消えていた。残るのは、空気の温度と湿度だけ。懐の胎児の存在が、唯一、現実を思い出させる支えになった。

 

 ゆっくり足を進める。冷たく、重く、しかし確かな存在を抱いたまま、異界の深淵へ――地獄の闇に包まれながら、歩みを止められなかった。

 

 闇の中、足元を確かめながら歩いていると、微かに電子音が響いた。端末の光が暗闇をかすかに照らす。その青白い光の輪郭に、数字と波形が揺れて映っている。心臓が少し跳ねた。あの波形――やはり、接続が近い。

 

「種田さん、端末の表示をご確認ください」

 

 佐藤の声が、静かな闇の中に響いた。声は冷静で、どこか遠くから届くような感覚がある。振り返ると、そこには影だけが揺れていた。存在感だけが、確かにそこにある。

 

「……接続、ですか」

 

 口に出すと、自分の声が異界の静寂に吸い込まれるように消えた。胸の奥で胎児が微かに動く。守るべき存在を抱いたまま、進むべき道を確かめるしかない――その思いが、足を止めさせない。

 

 端末の波形が、少しずつ脈打つリズムを変えた。数字が瞬間的に点滅し、次の接続予定時刻を告げている。画面に映るのは、冷たい青白の文字列。「00:12」……あと十二秒で、接続が始まる。

 

「深呼吸をしてください。意識を安定させるのを心がけてください」

 

 佐藤の声が再び届く。言葉に従い、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。胸の奥で胎児が動く感触を感じながら、意識を一点に集中させる。視界の闇が、わずかに波打ち、景色が歪む。

 

 その瞬間、目の前に草原のような光景が広がった。だが前回の柔らかい風景とは違い、冷たく、ざらついた空気に包まれている。遠くで誰かの気配を感じる――目を凝らすと、あの存在が立っていた。

 

「はな……」

 

 声に出しかけて、ぎりぎりで止める。ここはまだ現世ではない。異界、地獄の端縁。守るべきものを抱え、接続の波の中で揺れながらも、種田はその存在を見据えた。

 

 端末の数字がゼロに近づく。冷たい光が全身を包む前に、深く息を吸い込み、そして吐き出す。

 異界と現世の狭間で、接続の瞬間が、確かに始まろうとしていた。

 

 薄暗い地獄の空気が、懐に抱えた小さなホルマリン漬けの胎児を揺らす。冷たいガラス瓶越しに、ぼんやりと揺れる水の中で胎児の形が微かに見える。手のひらに感じる僅かな重みが、異様な現実を否応なく実感させる。

 

 視界の端に、焦げた地獄の大地と灰色の霧が漂う。足元の砂利を踏みしめる度に、かすかな音が響き、静寂を切り裂く。周囲の風景は、先ほどまでの現世の光景とはまるで別の次元にあるかのようで、胸の奥がざわつく。

 

 思わず端末を手に取る。画面には佐藤さんの文字が浮かぶ。

 

『……大丈夫ですか、種田さん?』

 

 文字を眺めるだけで、少しばかりの安心感が湧く。けれども、この重さ、この冷たさは、安心だけでは押し隠せない。懐に抱えた存在が、これから進む道の責任と重さを押し付ける。

 

 足取りを確かめるように、一歩一歩進む。灰色の霧の中で、光も影もない地獄の道を、胎児を抱きしめたまま歩く。遠くで、誰かの視線が自分を追うような感覚があり、呼吸が少し荒くなる。

 

「……この先に、何が待っているのだろうか」

 

 小さく呟く声が、灰色の空間に吸い込まれていく。地獄の空気に混ざる自分の鼓動だけが、確かに生きている証拠として響く。懐の胎児の温度は冷たいが、存在感だけは鮮明で、これからの選択を突きつけるように圧をかける。

 

 歩みを止めるわけにはいかない。振り返ることもできない。ただ、前へ――胎児の小さな存在とともに、地獄の深淵を進むしかないのだと、胸に刻む。

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