執務室へと続く廊下を歩く。壁に沿った冷たい石の床が足裏に硬く伝わり、空気は湿って重い。ホルマリン漬けの胎児が胸の中でわずかに揺れる。存在の重みが、肩と背中にずしりとのしかかる。
薄暗い照明が、廊下の端から端まで淡く光を落とすだけで、影が深く伸びる。目を凝らすと、壁の陰から微かに動く気配がちらつく。だが、地獄に慣れたはずの感覚が、わずかに現実とずれる。
手で容器を押さえながら慎重に進む。時折、胎児の中で微かに動く感触が胸に伝わり、心がざわつく。この存在は、ただの物体ではない。生きている、そう錯覚するほどの重みだ。
歩みを止め、周囲の静けさに耳を澄ます。金属の扉の向こうから低い唸りが聞こえた気がした。立ち止まるが、音は消え、影も消えている。
再び歩き出す。胸の中の重みを抱え、廊下の奥へ進むたび、地獄に戻ってきた実感がじわじわと心に染みていった。
◇◇◇
木製の扉に手をかけると、その冷たさが指先を貫いた。力を込めず、そっと押す。扉は重くも軽くもなく、ただ確かにそこに在るという感触だけが返ってくる。
開けた先に広がる室内は、想像以上に静かだった。匂いも湿気もなく、光も音も届かない。空間そのものが切り取られ、存在だけがぽつりと浮かんでいるような“無”。
机の前に立ち、書類に触れる。指先で紙の端をすくい上げる感触は確かだ。しかしその瞬間、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。静寂の中で、心拍が自分の耳にまで響く。空気の重みも、外界の気配もすべて消え去ったこの場所で、意識だけが過剰に鮮明になっていく。
目の端に廊下の揺らぎが映り、現実との境界を思い出させる。しかしその一瞬ですら、胸の奥の緊張は増す。ここは守られた空間でも、安心の場所でもない。ただ、無の中に自分が立っているだけだ。
それでも、机の前に立ち、次の行動を考える。指先に伝わる紙の冷たさ、木の扉の質感、静寂に押し込まれた自分の鼓動――そのすべてが、無の空間と自分との微かなずれを示しているようで、目を離せなかった。
木製の扉を閉めると、無の空間はより濃く沈んだ。匂いも音もない。光さえ届かない。机の前に立ち、書類に指先を触れる。冷たく、紙の繊維の感触だけが、いまの現実を伝えてくる。しかし、胸の奥で微かにざわめくものがあった。鼓動が、静寂の中で自分を確かめさせる。
私はゆっくり書類を開き、目を走らせる。数字、文字、記録――並んでいるだけのはずなのに、どこか異質な空気が漂う。机の上の端末をそっと操作すると、画面に次の行動の選択肢が映った。冷たく光る文字は、静かに圧力を帯びて迫ってくる。
一瞬、立ち止まる。無の空間の中で、心の奥の声が小さく囁く。「ためらうな、動け」――私は深呼吸し、指先を紙の上に置く。手のひらに伝わる冷たさは、迷いを切り裂くように感じられた。
目の前に並ぶ書類や端末の情報をひとつずつ受け止める。無の空間に沈む意識を、ゆっくり一点に集中させる。覚悟が生まれる。ここでの行動ひとつひとつが、後に繋がる結果を作るのだと実感する。
肩の力を抜き、静かに息を整える。無の静けさは恐怖ではなく、むしろ自分の意識の輪郭を浮き上がらせる鏡のようだ。指先の感触を頼りに、次のページに目を移す。無の中で芽生えた小さな決意が、確かな行動へと変わろうとしていた。
端末の画面に映る数字をじっと見つめる。心臓が、静寂の中で確かに鳴る。時間の刻みが、私の胸の奥まで伝わるようだった。次の接続予定時刻は、もうすぐだ。
手を伸ばす。冷たい金属ではなく、木製の端末の感触が指先に伝わる。触れた瞬間、微かな振動が掌に走った。情報がこちらに届いたのか、それとも錯覚か――迷いはすぐに消える。選択はもう始まっているのだ。
視界の端に、薄く光る影が揺れる。無の空間に現れたわずかな存在感。私の意識を引きつける。息を整え、ゆっくりと端末の操作を続ける。文字列や数字を確認し、必要な手順をひとつひとつ確かめる。焦りはない。いや、焦りを持ってはいけない。
胸の奥で、ざわつく感覚を抑える。ここでの一瞬一瞬が、後のすべてに繋がる。紙の上の書類も、端末の画面も、静かに命令を伝えるだけの存在ではない。私の覚悟を試す鏡のように、じっとこちらを見返してくる。
「行くしかない」
小さく、声にならない言葉を口にする。指先を軽く握り、端末の画面を最後まで確認した。すべての情報が整い、次の接続の瞬間に向けて意識が集中する。
無の空間の中で、心の奥のざわめきが確信に変わる。覚悟は、静かに私を貫いていた。木製の扉の向こうに何が待つかはわからない。それでも、私は動く。
指先が端末を押す――接続開始の合図だ。
◇◇◇
指先が端末を押した瞬間、世界が一瞬の光に溶けた。木製の扉の感触も、部屋の空気も、すべてが揺らぎ、消えた。目を閉じているわけではないのに、視界は白と黒の混ざった光の海に包まれる。
意識の奥がざわめき、体の中で何かが形を変える。呼吸も心臓の鼓動も、自分のものではないように感じる――それでも、私は確かにそこにいる。
草原の風景が、記憶の中ではなく、目の前に広がる。だが今回は、以前とは違う。色は鈍く、空気は冷たく、遠くで何かが低く呻いている。視線を中央に向けると、薄い影が立っていた。人なのか、それとも――。
胸の奥で、ざわめきが強くなる。恐怖ではない。ただ、理解できない感覚が体を突き抜ける。それでも、前に進むしかない――手を伸ばすと、影もまた動いた。
「ここから先は、もう選択じゃない」
心の中でそうつぶやく。体は自然に動き、木製の扉の先に足を踏み出す感覚。光と闇が混ざり合い、世界が歪む中で、私の意識は徐々に変容していく。
地獄と彼岸の境界が、今、この瞬間に消える。記録されない存在、#0067、そして――“はな”。次々と、知っているはずのない存在たちが、目の前に現れる。
手を伸ばせば、触れられるかもしれない。だが同時に、ここで立ち止まれば、すべてを失うかもしれない。胸の奥のざわめきは、覚悟の証だ。
光が収まり、意識が落ち着く頃、私は確信する――動くしかない、と。木製の扉の向こうに何があっても、もう戻れない。
光が薄れ、世界が落ち着きを取り戻すと、目の前には見覚えのある姿があった。
“はな”。
遠くで揺れるその小さな影は、確かに私の娘として書類上に登録されていた存在――だが、目の前にいる彼女は、写真や記録の中の“はな”ではなく、生きている存在だった。
草原の風が髪を揺らし、彼女の瞳が私を見上げる。恐怖も警戒もない、ただ静かな好奇心と、少しの寂しさを湛えた瞳。息を飲むと、自然に足が前に出る。
「はな……」
声はかすかに震えた。けれど、声が届いたのか、彼女は少しだけ微笑んだ。
手を差し伸べると、はながゆっくりと近づき、そして――迷うように、だが確実に私の手に触れた。冷たくもなく、温かくもなく、ただ存在の重みだけが伝わる。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けるように広がる。記録されない存在としての“はな”の重み、地獄と彼岸の狭間で揺れる私の意識、そして変換されつつある自分――すべてが一点に収束する感覚。
目を合わせたまま、はなは小さくうなずく。まるで「ここにいていい」と言われたように。私もまた、力強く頷き返す。
世界はまだ揺らいでいる。草原も、冷たい風も、遠くで呻く影も――だが、手をつなぐことで、少なくとも今、この瞬間、確かな繋がりを持った。
動くしかなかった選択の先に、確かに希望があった。