名を呼ぶと、返事の代わりに小さな手が差し出される。恐る恐る触れた瞬間、胸の奥に波紋が広がる。安堵とも驚きともつかぬ感覚が全身を満たし、息が詰まるほどの実在感が押し寄せてきた。そこにいる。たしかに、ここにいる。小さな手のぬくもりと重みが、それを告げている。
それなのに、不思議な不安定さがまとわりついて離れない。掌は温かいのに、感触が深部へと届かず、輪郭だけを撫でていくような頼りなさ。足下の草原も視界に広がっているはずなのに、踏みしめたはずの感覚が薄く、地に足がついていないように思える。
「ここにいるよ」
はなの声が落ちた。風に溶けるように柔らかく、耳からではなく胸の奥に直接触れてくるような響きだった。その一言が心臓に重く沈み、ひとつ強く打たせる。
信じたい、と強く思う。けれども問いは消えなかった。記録に残された笑顔。紙の上に記された存在。そして、目の前で小さな手を握り返す少女。どれが真実で、どれが幻なのか。
手を離すことだけはできなかった。恐怖よりも、迷いよりも、この手を失うことのほうが、はるかに耐えがたかったからだ。
握った手のぬくもりを確かめるように立ち尽くしていると、周囲の草原がふっと揺らいだ。
風が強まったのではない。大地そのものが軋みを上げるように波打ち、遠くの景色が滲み、輪郭を失っていく。草は色を失い、空は薄い靄をかぶせられたように沈んでゆく。
視界の端に、ぼんやりとした影が現れた。人の形にも見える。けれど、どこか歪んでいて、体の一部が煙のようにほどけ、また凝り固まる。かつて記録で目にした“声にならない呻きをあげる人影”に似ていた。声にならない呻きが、風の中に混じる。
握る手に力がこもる。すると、はなは振り返ることもせず、小さく足を踏み出した。ためらいも、怯えもない。まるでこの変質に慣れきっているかのように、迷わず進んでいく。
一歩遅れて後を追う。草原は足下から少しずつ形を変えていく。柔らかな草は硬い石畳へ、遠くの丘は壁のように積み上がる建物へと姿を変え、知らぬ街路の風景が立ち現れる。
現実と虚構が境を失い、歩を進めるごとに世界が姿を変えていく。その只中で、はなの背だけが変わらず、淡い光のように揺れていた。
◇◇◇
石畳を踏みしめるごとに、街路の輪郭がくっきりと立ち現れていく。廃墟にも似た建物が両脇に連なり、壁には見慣れぬ符号が刻み込まれていた。幾度も記録で目にした印が、ここでは呼吸をするように存在している。
はなは立ち止まり、刻まれた符号を見上げた。目に映るものを恐れるでもなく、ただ見慣れた景色のように眺めている。その横顔に問いを投げかけると、返ってきたのは短い言葉だった。
「ここは記録に残らない場所」
意味を理解する前に、胸の奥がざわめく。記録に残らない――つまり観測されていないということか。だとすれば、存在そのものが帳簿の外にある。
「だから、わたしは消えない」
はなは淡々と告げた。表情に陰りはない。けれど、その言葉が持つ重みは、虚ろな街路に鋭く響いた。
なぜ消えないのか。なぜここにいるのか。問いは溢れていくのに、はなはそれ以上は語らない。ただ前を向き、歩みを進める。
その背を追いながら、壁に刻まれた符号がひとつだけはっきりと読めた。
――観測塔。
その二文字が心に焼きついた。これまで断片のように耳にしてきた名が、いまここで、確かな形をもって迫ってきた。
街路を抜けると、開けた空間に出た。かつて広場だったのだろう場所。石畳は崩れ、建物の壁は半ば朽ち、刻まれた符号だけがしぶとく残っている。
はなはそこで立ち止まり、そっと息を吐いた。
「ここまで来れば、大丈夫」
囁くような声。けれど瞳の奥に、かすかな影が揺れていた。安堵と不安が同居するような色合いに、言葉以上の意味を感じ取る。
耳を澄ませると、空気が震えていた。低く、濁った響き。風ではない。壁でも大地でもなく、存在そのものが揺さぶられるような感覚。
視界の端に、黒い影がじわりと広がる。人の形をしているようで、していない。輪郭は煙のように曖昧で、呻き声とも溜息ともつかぬ音を吐き出しながら、こちらへとにじり寄ってくる。
数は一つではない。二つ、三つ、数えきれぬほどの影が、広場を囲むように立ち現れる。逃げ場を塞ぐかのように、じりじりと近づいてくる。
握っていたはなの手が、わずかに震えた。その微かな震えに、胸の奥がざわりと揺れる。
選ばなければならない。
立ち向かうか、逃げるか。
決断を先送りにできる余地は、もうどこにも残されていなかった。