地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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影の中を抜けて

 黒い影が広場の縁からあふれ出していた。

 最初はひとつきりの塊に見えたものが、目を凝らすうちに幾重にも分かれ、人のような輪郭を形作っていく。けれど人ではない。頭部と思しき部分は煙のようにほどけ、脚にあたるものは大地に溶けるように揺れている。

 

 呻きとも溜息ともつかない音が低く広がり、耳からではなく胸の奥に直接沁み込んでくる。近づかれるだけで景色が揺らぎ、石畳が歪み、遠くの壁は滲んで形を失った。

 

 手の中の小さな温もりに力を込める。はなの指先がわずかに震え、それでも離さぬように握り返してくる。その心細さと強さが同時に伝わってきて、喉の奥に熱いものが詰まった。

 

「大丈夫」

 

 かすかな声が響く。震えを隠そうとするように落ち着いた調子を装っているが、その言葉の端に影が差している。

 

 広場を囲むように黒い影は数を増やし、輪郭の曖昧さを保ったまま、じりじりと迫ってきた。逃げ場をなくすように、あらゆる道を塞ぐ。

 

 その圧迫感に押し潰されそうになりながらも、握る手を決して放すことだけはしなかった。

 

 影は襲いかかってくるわけではなかった。ただ、じりじりと歩み寄り、その存在を押し付けてくる。近づくだけで空気が重くなり、胸の奥がざらつき、思考が濁っていく。

 

 視線を向けると影は輪郭を濃くし、人の形に近づいていった。逆に目を逸らした途端、境界は揺らぎ、黒い塊に戻っていく。

 

「見てはだめ」

 

 はなが囁いた。声は小さいのに、耳よりも先に心臓を掴まれるような強さがあった。

 言われるままに影から目を外す。すると足下の石畳が安定を取り戻し、頭の中に漂っていた濁りが薄れていった。

 

 理解が追いつく。これは攻撃ではなく、観測そのものに作用している。見れば見るほど輪郭を獲得し、存在を強める。逆に目を逸らせば曖昧に戻り、力を失う。

 観測が存在を確定させる――理屈では知っていたことが、いま現実の感覚として迫ってきた。

 

「だから、見ちゃだめ」

 

 はなは再び繰り返した。小さな声が、この場で唯一の指針となる。

 影たちは呻きながら迫り続ける。視線を逸らし続けることは難しく、意識は揺さぶられる。だが、それ以外に抗う術はないことも、同時に理解させられていた。

 

 視線を逸らしながら一歩を踏み出すたび、影の呻きが強くなる。

 

 耳ではなく骨の奥を震わせるその響きが、広場全体を覆っていた。

 

 ふと、影の群れの裂け目から、かすかな光が差しているのが見えた。

 

 霧の向こうに、細い線のような輝きが縦に走っている。

 歩を進めるごとにその姿は輪郭を得ていく。

 

 天を突くようにそびえる構造物。

 

 塔だった。

 

 外壁には無数の符号が脈打つように明滅している。

 それらはただ刻まれているのではなく、生き物のように呼吸し、周囲の闇を照らし出していた。

 

 塔から放たれる光は、影たちを惹きつけているかのように見えた。

 

 はなはその塔をじっと見据えた。

 恐怖ではなく、覚悟を宿した眼差しで。

 やがて、小さく口を開いた。

 

「行かなきゃ」

 

 影の密度は増し、道を塞ぐようにうねっていた。

 だがあの塔に辿り着かねばならない。

 

 そのことだけは、言葉を交わすまでもなく理解できた。

 視線を逸らし、意識を制御しなければ突破できない。

 考えるより先に、答えは胸の奥で形を取っていた。

 

 はなの手を確かめるように握り直す。

 その細い指先は震えていたが、しっかりと応えてくる力もあった。

 

「目を閉じて」

 

 はなの声に導かれるように、瞼を下ろした。

 闇の中で、影のざらついた気配が全身をかすめる。

 冷たい指が頬に触れる錯覚、重い吐息が首筋に落ちる幻聴。

 

 それらを振り払う術はなく、ただ意識を逸らすことだけが唯一の盾だった。

 

 一歩ごとに心臓が痛みを訴える。

 

 足音は吸い込まれるように消え、代わりに呻き声だけが幾重にも重なって響く。

 影は確かに手を伸ばしているのに、そこに視線を注がないかぎり触れることはできない。

 

 その不安定な均衡のうちに、道はわずかに開けていった。

 やがて空気の色が変わるのを感じた。

 

 重苦しいざわめきが後方へ薄れ、まぶた越しに光が差し込んでくる。

 目を開くと、そこには塔の全貌があった。

 

 巨大な影を背後に退け、観測塔は目前にそびえていた。

 外壁を走る符号は鼓動のように脈動し、天へと伸びる軌跡を描いている。

 

 はなの顔が視界に映った。

 安堵と悲しみ、そして決意が入り混じった表情。

 これまで見たことのない色合いが、その横顔に宿っていた。

 

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