地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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記録に残らぬ者

 塔の全貌が目前にあった。

 

 外壁はただの石や鉄ではなかった。光を孕んだ符号が幾筋も走り、血管のように脈を打っている。呼吸をしているかのように明滅し、そのたびに周囲の空気まで震わせていた。

 

 見上げても頂は霞の向こうに隠れ、終わりが見えない。天を突くという言葉を、これほど実感させるものはなかった。

 

 足元には入り口らしき扉があった。

 だがそれも常のものとは違う。木製に見えるはずなのに、表面はわずかに透け、触れれば手ごと飲み込まれそうな感触を漂わせている。存在しているのに、確かめるたびに希薄になっていく不安定な姿。

 

 目を凝らすと、扉の表面には数え切れぬほどの細かな文字や符号が浮かんでは消えていた。見れば見るほど頭の奥がざわつき、言葉にならない声が響く。

 

 はなは迷いを見せなかった。

 

 細い指がすっと前に伸び、扉へ触れる。

 

 その瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。まるで警鐘のように、ここから先へ進むことを拒む感覚が全身を突き抜ける。

 

 それでも、振り返ったはなの瞳は揺るがなかった。

 ためらいも恐怖もなく、ただ真っ直ぐに先を見据えている。

 

 その眼差しに押されるように、足は自然と一歩、扉へ近づいていった。

 

 ◇◇◇

 

 扉を抜けた瞬間、音が失われた。

 足音も呼吸の響きも、すべてが吸い込まれていく。

 耳に届くものは何ひとつないのに、沈黙が重さを持って降りかかる。

 

 内部には床も壁も天井もない。

 ただ、上下の感覚さえ曖昧になる広がりが続いていた。

 立っているはずの足元さえ、確かめようとすれば溶けるように消えていく。

 

 その無の空間に、粒子のようなものが無数に漂っていた。

 光の欠片に見える瞬間もあれば、紙片のようにひらめくこともある。

 

 耳を澄ませると、それらは声を帯びていた。

 笑い声、すすり泣き、叫び、祈り。

 断ち切られた記憶の断片が、あてもなく漂っている。

 近くを横切った粒子に触れそうになり、慌てて手を引いた。

 

 その一瞬で胸に広がったのは、知らぬ誰かの絶望の声。

 わずかにかすめただけで、まるで心の奥へ刻み込まれるような感覚が残る。

 

 ここは記録を収める場所――。

 

 だがそれは書き留められた歴史ではなく、観測されず消えかけた声や姿の集積。

 この塔は「存在しなかったことにされるもの」を拾い上げている。

 理解に近い直感が、重い沈黙の中で確かに形を取っていった。

 

 漂う粒子のひとつが、はなの手元に降りてきた。

 淡い光を帯び、心臓の鼓動に合わせるように脈打っている。

 

 はなの指先がその光に触れると、空間が震えた。

 粒子はひとつの点から広がり、たちまち光景へと変わっていく。

 

 そこに映し出されたのは、一人の女性。

 柔らかな黒髪を後ろで束ね、薄色の着物を纏っていた。

 表情は静かで、笑みを浮かべている。

 

 だがその微笑には、儚さと諦めを抱え込んだ影が差していた。

 見覚えがあった。

 はなの面影を確かに宿しながら、しかし年齢も仕草も異なる。

 

「はな」と呼んできた存在が、別の名を持つ誰かであることを告げていた。

 

「……美薗はつ」

 

 声は、はなの口から零れた。

 同時に光景の中の女性の唇も動き、同じ音を形作っていた。

 

 生前の名。

 記録に残らなかった、ただ消えるはずだった存在の証。

 

「ここにいれば、消えない」

 

 はな――いや、美薗はつはそう告げた。

 その声は穏やかで、それゆえに痛切だった。

 ここに留まることで、存在を保つことができる。

 けれど同時に、外の世界へ戻る道は絶たれる。

 理解が胸の奥に沈み、重さを増していった。

 

 光景は静かに閉じ、再び粒子の漂う空間が広がった。

 だがその奥に、ひときわ強い輝きが見えた。

 符号が幾重にも絡み合い、渦を巻きながら集束している。

 

 すべての断片を吸い上げ、一条の光柱へと変えていた。

 塔を貫き、天へと昇るその光は、見上げるだけで圧倒されるほどの力を持っている。

 足が自然にその方向へと動いた。

 

 背中に漂う記録のざわめきを感じながら、光の中心へ近づく。

 やがて、轟音に包まれた。

 耳で聞くのではなく、骨の芯に響くような振動。

 存在そのものが問われているような、逃げ場のない響き。

 

 はなは立ち止まり、光柱を見上げた。

 顔を照らす光は眩しく、それでも瞳は一度も逸らさない。

 

「――選ばなきゃ」

 

 言葉は小さく、しかし確かに届いた。

 それは誰に向けられたものでもなく、己に課す宣言のように響いた。

 

 ここで「存在を保つ」か、「外へ戻る」か。

 その選択が迫られているのだと、光の圧に飲まれる中で悟る。

 

 視線を逸らすことも、耳を塞ぐことも許されない。

 ただ、はなの横顔が真っ直ぐに光を見つめている。

 その揺るぎなさに、胸の奥で何かが強く脈打った。

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