地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

155 / 186
記録と裁き

 光の奔流に呑まれたあと、視界が再び形を取り戻した。

 そこにあったのは、見慣れたはずの執務室へと続く廊下。

 木製の扉が正面に立ち、石壁は等間隔に連なっている。

 あまりに馴染んだ光景に、思わず息が整うのを待った。

 だが、違和感はすぐに訪れた。

 

 廊下には音がなかった。

 衣擦れの微かな気配さえも、靴音の反響もなく、呼吸の音だけがやけに大きく響いている。

 照明に満たされた光も、いつもの淡い橙ではなく、塔の内部を思わせる白に近い色を帯びていた。

 

 扉の木目を見つめると、表面が水面のように揺らめいていることに気づいた。

 視線を逸らすたびに波紋が走り、扉全体が生き物のように呼吸している。

 轟が小さく声を漏らした。

 

「……ここ、本当に戻ってきたのか?」

 

 言葉を返そうとしても、喉に冷たい重さが絡みついて動かなかった。

 この場所は、地獄ではない。

 観測塔が映し出した幻、あるいはその内部の一部。

 そう理解するまでに時間はかからなかった。

 

 はなだけが静かに前を見据えていた。

 光を映す瞳に迷いはなく、まるで初めからこの景色を知っていたかのようだった。

 

 正面の木製の扉が、誰の手も触れぬままに音もなく揺れた。

 ゆっくりと開いていく隙間から、冷たい空気が流れ込む。

 

 それは匂いも温度も伴わない、ただ“何もない”気配。

 廊下の白い光さえ押し返すように、空虚がじわりと広がった。

 轟が思わず身を引いた。

 

 その肩先が小さく震えているのが視界の端に映る。

 逃げ場を探すように振り返っても、背後の廊下は霞がかかるようにぼやけており、進めば進むほど遠ざかっていくように見えた。

 

 戻る道は最初から閉ざされている。

 開いた扉の向こうには、形を持たぬ余白だけが広がっている。

 床も壁も天井も見当たらず、ただ一面の空白が揺れていた。

 

 その中心にかすかに光が浮かんでいる。

 はなが一歩、迷いなく扉をくぐった。

 背筋に残る緊張を振り払うように歩を進め、白の余白へと消えていく。

 

 扉の向こう側からは、何も聞こえなかった。

 扉の前に残された足は、すぐには動けなかった。

 空虚の気配が肌を刺し、踏み込めば二度と戻れないと告げていたからだ。

 

 だが、はながこちらを振り返った。

 その目に宿る光は静かで、まるで「来ることを知っている」と言わんばかりだった。

 次の瞬間、躊躇は崩れ落ち、足は扉の中へと踏み出していた。

 

 ◇◇◇

 

 扉を越えた瞬間、足の下から床の感覚が消えた。

 固い石も柔らかな土もなく、ただ白い余白に立たされている。

 

 上下の区別さえ曖昧で、立っているのか浮かんでいるのかも定かではなかった。

 轟が慌てて手を伸ばし、袖を掴んだ。

 

 掴まなければ、足場を失ってそのまま落ちていきそうな錯覚に囚われる。

 だが、落ちる先はどこにもない。

 どこまでも続く白に飲み込まれるだけだった。

 

 空間の中心に、小さな光が漂っていた。

 それは塔の中で見た奔流の残滓のようで、形を保つたびに微かな脈動を放つ。

 

 眩しさはないが、目を逸らすことができなかった。

 その光から声が響いた。

 音というより、思考の奥に直接刻まれるような響き。

 

「記録を選ばぬなら、ここで選ばせる」

 

 言葉が空虚の広がりに反響し、何度も繰り返される。

 そのたびに胸の奥が重く締めつけられ、呼吸が乱れそうになる。

 ここは塔の内部であり、執務室でもある。

 

 観測と裁きが重なり合い、形を失った空間。

 逃げ場のない場所へ導かれたことを悟るのに、長い時間は必要なかった。

 はなが光をまっすぐに見据えた。

 その静けさが、迫り来る決断の重さを際立たせていた。

 

 白の余白に漂う光が、ゆっくりと形を変えた。

 円環のように広がり、はなの周囲を取り囲む。

 その動きは穏やかでありながら、逃げ道を封じる鎖のようでもあった。

 

「消えるか、残るか」

 

 声が再び響いた。

 先ほどよりも深く、直接心臓を握るような重みを帯びている。

 今回は、沈黙でやり過ごすことを許さない気配があった。

 

 轟が小さく呻き声を漏らし、手を伸ばそうとした。

 しかし光は渦を巻き、近づくことを拒むかのように強く脈動する。

 ただ見守るしかなかった。

 

 はなの髪が光に揺れ、頬に影が落ちる。

 瞳は一点を射抜くように輝き、その姿は静かな決意と緊張の狭間にあった。

 空間そのものが震え、余白に亀裂のような揺らぎが走る。

 

 観測と裁きが重なり合い、存在そのものを選び取らせようとしている。

 この瞬間が、逃れることのできない最後の分岐であると告げていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。