光の奔流に呑まれたあと、視界が再び形を取り戻した。
そこにあったのは、見慣れたはずの執務室へと続く廊下。
木製の扉が正面に立ち、石壁は等間隔に連なっている。
あまりに馴染んだ光景に、思わず息が整うのを待った。
だが、違和感はすぐに訪れた。
廊下には音がなかった。
衣擦れの微かな気配さえも、靴音の反響もなく、呼吸の音だけがやけに大きく響いている。
照明に満たされた光も、いつもの淡い橙ではなく、塔の内部を思わせる白に近い色を帯びていた。
扉の木目を見つめると、表面が水面のように揺らめいていることに気づいた。
視線を逸らすたびに波紋が走り、扉全体が生き物のように呼吸している。
轟が小さく声を漏らした。
「……ここ、本当に戻ってきたのか?」
言葉を返そうとしても、喉に冷たい重さが絡みついて動かなかった。
この場所は、地獄ではない。
観測塔が映し出した幻、あるいはその内部の一部。
そう理解するまでに時間はかからなかった。
はなだけが静かに前を見据えていた。
光を映す瞳に迷いはなく、まるで初めからこの景色を知っていたかのようだった。
正面の木製の扉が、誰の手も触れぬままに音もなく揺れた。
ゆっくりと開いていく隙間から、冷たい空気が流れ込む。
それは匂いも温度も伴わない、ただ“何もない”気配。
廊下の白い光さえ押し返すように、空虚がじわりと広がった。
轟が思わず身を引いた。
その肩先が小さく震えているのが視界の端に映る。
逃げ場を探すように振り返っても、背後の廊下は霞がかかるようにぼやけており、進めば進むほど遠ざかっていくように見えた。
戻る道は最初から閉ざされている。
開いた扉の向こうには、形を持たぬ余白だけが広がっている。
床も壁も天井も見当たらず、ただ一面の空白が揺れていた。
その中心にかすかに光が浮かんでいる。
はなが一歩、迷いなく扉をくぐった。
背筋に残る緊張を振り払うように歩を進め、白の余白へと消えていく。
扉の向こう側からは、何も聞こえなかった。
扉の前に残された足は、すぐには動けなかった。
空虚の気配が肌を刺し、踏み込めば二度と戻れないと告げていたからだ。
だが、はながこちらを振り返った。
その目に宿る光は静かで、まるで「来ることを知っている」と言わんばかりだった。
次の瞬間、躊躇は崩れ落ち、足は扉の中へと踏み出していた。
◇◇◇
扉を越えた瞬間、足の下から床の感覚が消えた。
固い石も柔らかな土もなく、ただ白い余白に立たされている。
上下の区別さえ曖昧で、立っているのか浮かんでいるのかも定かではなかった。
轟が慌てて手を伸ばし、袖を掴んだ。
掴まなければ、足場を失ってそのまま落ちていきそうな錯覚に囚われる。
だが、落ちる先はどこにもない。
どこまでも続く白に飲み込まれるだけだった。
空間の中心に、小さな光が漂っていた。
それは塔の中で見た奔流の残滓のようで、形を保つたびに微かな脈動を放つ。
眩しさはないが、目を逸らすことができなかった。
その光から声が響いた。
音というより、思考の奥に直接刻まれるような響き。
「記録を選ばぬなら、ここで選ばせる」
言葉が空虚の広がりに反響し、何度も繰り返される。
そのたびに胸の奥が重く締めつけられ、呼吸が乱れそうになる。
ここは塔の内部であり、執務室でもある。
観測と裁きが重なり合い、形を失った空間。
逃げ場のない場所へ導かれたことを悟るのに、長い時間は必要なかった。
はなが光をまっすぐに見据えた。
その静けさが、迫り来る決断の重さを際立たせていた。
白の余白に漂う光が、ゆっくりと形を変えた。
円環のように広がり、はなの周囲を取り囲む。
その動きは穏やかでありながら、逃げ道を封じる鎖のようでもあった。
「消えるか、残るか」
声が再び響いた。
先ほどよりも深く、直接心臓を握るような重みを帯びている。
今回は、沈黙でやり過ごすことを許さない気配があった。
轟が小さく呻き声を漏らし、手を伸ばそうとした。
しかし光は渦を巻き、近づくことを拒むかのように強く脈動する。
ただ見守るしかなかった。
はなの髪が光に揺れ、頬に影が落ちる。
瞳は一点を射抜くように輝き、その姿は静かな決意と緊張の狭間にあった。
空間そのものが震え、余白に亀裂のような揺らぎが走る。
観測と裁きが重なり合い、存在そのものを選び取らせようとしている。
この瞬間が、逃れることのできない最後の分岐であると告げていた。