足元の感覚が定まらない。
光に包まれた余白と、木の扉へ続く廊下が重なり合い、境界の縫い目が脈打つように揺れていた。
白一色の空間はまだ残滓を引きずり、灰色の壁や床の上に薄い膜のように覆いかぶさっている。
その継ぎ目から滲む震動が、全身の骨にまで響いていた。
廊下の中央に、はなが立っている。
光を纏ったまま、幼い影が静かに伸びている。通常の地獄の存在にはあり得ない輪郭だった。
姿は確かにここにあるのに、触れれば崩れてしまいそうな脆さと、逆に全てを巻き込む強度とが同居している。
あの声の残響が、まだ耳の奥に焼き付いている。
――「残ることは負担を伴う。観測は代償を求める」
選択の答えは示された。それでも、その影に必ず何かを奪う力が潜んでいることを否応なく思い知らされる。
目を逸らすことはできなかった。
はなの存在は、風景の崩れよりも重く、鮮やかにそこに在った。
佐藤さんが小さく息を吸い、端末を操作する指先が光に照らされる。
画面には数字の羅列が乱れ、赤い文字でいくつもの警告が点滅していた。
「重複観測」「位相逸脱」「記録不一致」――本来なら並ぶはずのない項目が、ひとつの枠に押し込まれるように表示されている。
佐藤は視線を端末から離さず、低い声を落とした。
「……安定してません。観測対象が複数の層に跨っているようです」
隣で轟が苛立ちを隠さず舌打ちをする。
「残るだと? 勝手に居座ったせいで、地獄も現世も歪むって寸法じゃねぇか」
額に浮いた汗を手の甲で拭い、なおも視線ははなへと向けられている。
その目には怒りというより、不安と焦燥が滲んでいた。
言葉を飲み込んだまま、光を纏ったはなの姿を見つめる。
声をかけたい衝動が喉にまでせり上がるが、言葉にならない。
彼女がただ、こちらをじっと見ているだけで、喉を塞ぐ何かが生まれてしまう。
端末の点滅は止まらず、数字の狂いは刻一刻と広がっていった。
はなの輪郭が、不意に揺らいだ。
光の膜が波打つように震え、幼い顔立ちの奥から別の面影が透けて見える。
ひとりの女性の姿――。
真っ直ぐな眼差しと、わずかに下唇を噛む癖。かつて記録の中で垣間見た「美薗はつ」の影が、はなの輪郭と重なって立ち現れた。
その表情は一瞬の幻のようでありながら、確かにここに息づいているとしか思えなかった。
胸の奥で視界がぶれ、風景が三重に重なって映る。
廊下の灰色の壁。光に満ちた余白。さらにその奥で、見知らぬ現世の断片――揺れる木立や淡い夕暮れの街並みがかすかに混じる。
どれもが一つの場所に存在するはずのない景色なのに、はなの影を中心にして強引に寄せ集められていた。
視線を逸らすことができない。
はなの姿は、ただの幼い少女ではなく、生と死、記録と余白、複数の位相を同時に引き寄せる存在へと変わりつつある。
光に滲むその瞳が、問いかけるようにこちらを見据えていた。
廃墟の壁の隙間から、夜風がするりと入り込み、乾いた砂埃を巻き上げていく。
足もとに積もった灰がわずかに揺れ、まるで呼吸をしているかのように見えた。
視界の隅で、闇の中に浮かぶ光点が瞬いた。
それは灯りでも火でもなく、ただ静かに脈打つ「印」のような輝き。
眼を凝らすほどに、形は曖昧に溶けていくが、そこに確かに“在る”ことだけが伝わってくる。
心臓が一拍、強く鳴った。
その輝きと、懐に抱えた胎児の重みとが、妙に重なり合う。
――結びついている。
そんな直感だけが、言葉よりも先に胸を支配する。
耳鳴りのようなざわめきが、頭の奥で膨らみ続けた。
それは風の音とも、自分の血流ともつかぬもの。
ただ、次の瞬間には何かが変わる、そんな気配だけを運んできていた。
暗闇の中、呼吸を浅く整え、立ち尽くす。
地獄と彼岸、その狭間に差し込む微かな光が、どちらへ導くものなのかを確かめようとするかのように。
――夜はまだ、終わらない。