地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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かたち

 観測塔の空気はいつもより重く、肌に触れる風は微かに湿り気を帯びていた。

 足元の金属の床が冷たく、歩くたびに微かな振動が伝わる。

 耳ではなく、胸の奥から声が差し込んでくるような感覚に、思わず立ち止まる。

 

 ――はなの声に似ていた。けれど、どこか違う。

 

 微かに揺れる調子の中に、別の存在の気配が混ざり、どの瞬間が「はな」の声なのか判別できない。

 心臓の奥がざわつき、呼吸が自然に乱れる。意識の端で、存在が引き裂かれるような感覚が波のように押し寄せた。

 

 視界の端に、わずかな揺らぎ。光は蛍光灯の色そのままなのに、空間の輪郭が微かに生き物のように蠢いて見える。

 壁や鉄柱の影の奥に、見えない何かが潜んでいる気配。

 息を潜め、空気を吸い込むたびに、目の前の静寂が音を失ったように広がる。

 

「……誰か、いるのか?」

 

 声に出しても返事はなく、ただ胸の奥で囁きが届く。

 柔らかく、しかし確かに存在を主張する声。

 思わず肩をすくめ、立ち尽くす。足を動かそうにも、空気が重く、身体が鉛のように沈む。

 

 呼ばれるままに一歩前へ踏み出す。

 その瞬間、空気が微かに震え、床の振動と呼応するかのように声の波が広がった。

 声は近く、そして遠くから同時に押し寄せてくる。

 

 指先に感じるわずかな風の揺らぎ。息を吸い込むと、胸の奥に声の残響が絡みつき、思考の隅まで侵入してくる。

 幻覚か、現実か、境界が曖昧になる。

 

 呼吸のたび、声は柔らかく迫り、意識を揺さぶる。

 どこまでが安全で、どこからが危険なのか、確かめることができない。

 ただひとつ確かなのは、声がここに存在しているということ。

 

 思わず目を閉じ、耳を澄ます。

 胸の奥に届くその声が、やがて手で触れることのできるかたちに変わる予感がする。

 静かで、しかし抗えない引力のように、存在そのものが迫ってくる。

 

 視界の揺らぎの中で、佐藤さんの声が届く。

 

「種田さん、接触の位相が不安定になってます。気をつけてください」

 

 端末のスクリーンには数字が高速で変動し、通常のパターンとは明らかに違う動きを示していた。

 

「端末の数値も、普段より早く変動しています。状況によっては干渉が入るかもしれません」

 

 佐藤さんの声は落ち着いているが、背後の空間に漂う不安感は消えない。

 

 視界の隅で、ノイズ状の影がちらつき、壁や鉄柱の輪郭がわずかに歪む。

 

 空気がわずかにざわめき、呼吸のたびに胸の奥で微かな振動が跳ね返る。

 

 轟も異変を察知している様子だが、影の形は捉えられず、ただ存在の気配だけが伝わる。

 

「このまま進めば、接触が予想以上に早く進行する可能性があります」

 

 佐藤さんは淡々と説明しながらも、警告を含んで言葉を選んでいる。

 端末のゲージは、予定よりも急速に上昇し、接続時刻よりも前に次の段階が始まることを知らせていた。

 胸の奥に、声がさらに濃く響く。

 

 近くで囁かれ、遠くで呼ばれ、意識の隙間を埋めるように重なり合う。

 視界の端で揺れるノイズは、触れることができそうなほどまで迫り、存在そのものが形を持とうとしている。

 

「種田さん、くれぐれもご注意ください」

 

 佐藤さんの言葉が最後に届いた瞬間、空間全体の密度が一段と重くなる。

 声の波に抗う間もなく、身体の奥から微かに引き込まれるような感覚が押し寄せた。

 

 胸の奥に届く声が、形を持たぬ手のように意識を撫でる。

 耳に届くのではなく、脳内に直接触れるかのような不思議な感覚。

 

 その声は――はなに似ている。けれど、どこか違う。微かに別の存在の響きが重なり、判別できない。

 呼びかける。

 

「はな……」

 

 返ってきたのは、囁きのような否定。

 

「――ちがうよ」

 

 その響きは安らぎと恐怖を同時に伴い、存在の芯を揺さぶる。

 呼吸のたびに胸の奥でざわめきが広がり、思考が微かに引き裂かれる。

 

 触れた瞬間に「上書き」されてしまいそうな錯覚が押し寄せ、抗おうとする意志が次第に弱まっていく。

 意識の隅で、声が形を帯びるように揺らぐ。

 影が手のように伸び、空気の中に引きずり込むかのように迫ってくる。

 

 近くで囁かれ、遠くで呼ばれ、どの瞬間も逃れられない。

 存在が交錯し、安心と恐怖の境界が溶けていく。

 心のどこかで、「触れられてもいいのではないか」という感覚が芽生える。

 

 声の波は引くことなく、意識の奥まで浸透し、抵抗よりも受け入れを促す。

 周囲の空間はさらに歪み、光と影が揺れる中、触れられるのを待つ手のような存在が近づいてくる。

 一瞬、呼吸が止まった。

 

 声が空気を裂き、手となり、すぐそこまで迫っている。

 それを避けることも、逃れることもできない。

 胸の奥で、存在が重なり合い、混ざり合う恐怖と誘惑が同時に押し寄せる。

 

 佐藤さんの声が再び届く。

 

「種田さん、強制遮断を試みますが、端末の応答が鈍くなっています。状況には十分ご注意ください」

 

 端末のゲージは急上昇を続け、予定されていた接続時刻よりも前に、次の段階が始まろうとしていた。

 胸の奥で、声が形を帯びる。手のような影が空気を裂き、迫ってくる。

 

 視界の端に揺れるノイズは、もはやただの揺らぎではなく、存在そのものが形を持ち、触れられそうな現実感を帯びていた。

 

 声の波に抗う間もなく、呼吸のリズムが乱れる。

 近くで囁かれ、遠くで呼ばれる声が、意識の隅々まで浸透してくる。

 

 混ざり合った存在が胸の奥を押し広げ、抵抗の意志を削ぎ落としていく。

 触れれば戻れないと理解している。

 

 しかし、空気の奥から伸びる手のような影に、自然と目が向き、意識が引き寄せられる。

 その瞬間、声が身体の表面に触れるように感じられ、心臓の奥がざわめいた。

 

 わずかな静寂の後、空間全体が凝縮するように重くなる。

 

 光も影も、空気の振動も、すべてが声に支配されるかのようだ。

 

 拒絶の意志は遠く、胸の奥にはただ、声と触覚の波だけが残った。

 

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