観測塔は、まだそこにあった。
以前、確かにあの塔は消えたはずだった。草原の幻と共に、視界の中からゆっくりとフェードアウトし、風景そのものが塗り替えられていった。
もう二度と戻らない場所だと思っていたのに、眼前には確かにそびえている。錆びた鉄骨の骨組みと、風に軋む音が、現実味を伴って耳に届いてくる。
――いや、現実味というにはどこか曖昧だ。
視線を凝らすたび、塔の輪郭が揺らいでいた。まるで水面に映った影を無理やり立体化させたかのような、不確かな存在感。
近づこうと一歩を踏み出すと、靴底が硬い地面を踏む音はするのに、距離は縮まらない。塔はそこにあるのに、そこへはたどり着けない。
「種田さん……お気づきでしょうか」
隣に立つ佐藤さんが、低く囁く。彼の表情は平静を保っているが、瞳の奥には一瞬だけ、戸惑いの影がのぞいていた。
「これは、残像のようなものです。観測塔そのものではなく、接続が途切れた座標が、いまだ揺らぎとして残っている。いわば、廃墟の影が現実に貼りついている状態かと」
廃墟の影――その言葉は妙に腑に落ちた。俺の目に映る塔は確かに、実体というよりも「かつてあった」という記憶の残滓に近い。だが、完全に虚無へと還っていない以上、何かの働きかけがあるのだろう。
佐藤さんの説明を聞きながらも、胸の奥に別の感覚が広がっていくのを感じた。
懐の奥――心臓の鼓動と共鳴するように、ざわりとした熱が滲み出している。あのホルマリン漬けの胎児を抱え帰って以来、俺の中で時折顔を出す感覚だ。声とも、存在ともつかぬ何かが、俺に向かって語りかけてくる。
――塔はまだ、終わっていない。
そんな風に告げられているようで、思わず息を呑んだ。
「残像であれば……なぜ、いま、ここに見えているんですかね?」
問いかけると、佐藤はすぐには答えず、端末を開いた。液晶の上に浮かぶ数字列が、不気味なほどに規則正しく脈打っている。
「観測記録の変換度が、一定の閾値を越えたのだと思われます。種田さんの内面に刻まれたデータと、この地獄の位相が干渉し……こうして再び姿を現したのでしょう」
端末の光が、夜気の中でぼんやりと揺れる。その光に照らされる観測塔は、ますます現実と虚構の境を曖昧にしながら、じっとこちらを見下ろしていた。
観測塔は静かにそびえ立っている。けれど、その沈黙がかえって不気味だった。視界に入るたび、塔の骨組みが軋む音は確かに耳に届くのに、風は吹いていない。音だけが先行している。まるで死んだはずの心臓が、なお律動をやめないように。
「……このまま近づけば、飲み込まれる可能性があります」
佐藤さんが静かに言う。その言葉に含まれた緊張を、すぐに感じ取った。
「飲み込まれる?」
「はい。残像であるにもかかわらず、観測塔は構造を保持しています。つまり、本来消滅しているはずの“門”が、不完全な形で開いたまま残っているのです。内部へ踏み込めば、戻れなくなるかもしれません」
ぞわりと背筋を冷たいものが走った。
塔の中に閉じ込められる――それは死よりも質の悪い罰だろう。存在そのものが宙吊りにされ、記録と現実の間で永遠に固定される。考えただけで吐き気がこみあげた。
だが同時に、強烈な誘惑もまた胸をかすめていく。
あのとき俺が視た草原。あの場所で感じた、懐かしい温かさ。観測塔を経由して再び接続されるのなら、そこに“はな”の痕跡があるのかもしれない。
「……それでも、確かめなければならない気がする」
自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。
佐藤は少し目を伏せ、端末に指を走らせる。電子音が短く鳴り、画面に新しい表示が浮かび上がった。
「確かめるおつもりなら、最低限の保護を施さねばなりません。ですが――」
佐藤さんは小さく息を吐き、視線をこちらに戻す。
「これは選択です、種田さん。残像に触れず離れることもできますし、あえて近づき、内部に“声”を拾いにいくこともできる。どちらにせよ、観測記録には刻まれる。……その影響は、避けられません」
選択。
あのとき、非通知のメッセージが告げていた言葉が脳裏をよぎった。――「選択のときは、すでに始まっていた」。
気がつけば、観測塔から目を逸らせずにいた。
揺らめく残像が、まるでこちらを誘うように瞬いている。
観測塔の残像は、遠目には硬質な輪郭を保っているように見えた。だが一歩、また一歩と近づくたびに、その表面は水面のように震え、像を歪ませていく。近づけば近づくほど、塔は物質から遠ざかり、幻に近づいていくのだ。
端末が低く警告音を発した。胸ポケットに収めた振動がじりじりと肌に響く。
「数値が振れています。通常の揺らぎではありません……塔の内部と、外部の記録が混ざり合いはじめています」
佐藤さんの声は落ち着いていたが、その奥に硬い緊張があるのを感じ取れた。
混ざり合う――その言葉の意味を、俺は知っている。存在と存在の境界が失われ、何か別のものへと変換される。
足元の地面がふっと沈んだような感覚がした。視線を落とせば、黒ずんだ土に草の芽が混じっている。ありえない。ここは地獄の荒野だ。だが芽は確かに揺れていた。風など吹いていないのに。
塔から放たれる残光に照らされ、輪郭のあやふやな影がちらつく。耳の奥で誰かの声がかすかに重なった。
――……ねえ。
はなの声に似ていた。幼い頃の記憶に沈んでいた声が、現実に割り込んでくる。息を呑んだ瞬間、胸の奥が強く掴まれたように痛む。
「種田さん、無理に応答しないでください。まだ確定していない声です。ここで返してしまうと――」
佐藤の忠告が届くより早く、声ははっきりと形を持った。
――ここに、いるよ。
空気が一瞬、凝固した。視界の端で、草原が広がる。塔の影と地獄の荒野がその中で重なり、どちらが現実でどちらが幻なのかがわからなくなる。
端末の画面に、文字が勝手に走り始めた。
《変換進行度:47%》
《接続:未定義領域》
数字が増えるたびに、塔の残像は鮮明になり、俺の足は自然と前へ進んでいた。
「……止まってください、種田さん!」
佐藤の声が鋭く響く。だがその声さえ遠くに感じた。
胸に迫るのは、ただひとつの衝動――。
はなに、触れられるかもしれない。
◇◇◇
視界の奥で草原が揺れていた。やわらかな光に包まれた緑の波。その向こうに、小さな背中が見える気がした。こちらを振り向こうとする幼い仕草――はなの姿が重なり、心臓が一気に跳ね上がる。
その瞬間、塔全体が大きく震えた。鉄骨のきしむ音が耳を裂き、残像が弾けるように拡散する。歪んだ光の粒が宙を乱舞し、地獄の荒野と草原とが幾重にも重なった。
――おとうさん。
――たすけて。
――ここじゃない。
――こっちを見て。
声が幾つにも分裂し、重なり、互いに打ち消し合いながら響く。どれがはなの声なのか、判別がつかない。ひとつを掴もうとした瞬間、別の声が割り込み、意味を引き裂いていく。
「……っ」
足元が大きく沈み込んだ。土が崩れるのではなく、世界そのものが穴を開けて沈下していく。塔の残像に伸ばした手は、空気に溶けるようにしてすり抜けた。触れられない。いや、触れることを拒まれている。
端末が耳障りな警告音を響かせる。
《変換進行度:58%》
《干渉源:複数検出》
数値が跳ね上がるたび、身体の感覚が遠のく。足が地についているのか、それとも虚空に立っているのか、区別できなくなる。
「種田さん! 引いてください、今は危険です!」
佐藤の声が強く割り込んできた。遠ざかっていた音が、一気に鮮明に返ってくる。
「ここで確定してしまえば、声と存在の区別がつかなくなる。戻れなくなるんです!」
――戻れなくなる。
その言葉が冷水のように胸を打った。
目の前に広がる草原は、もはや草原の形を保てていない。緑と黒と灰色が混じり合い、塔の影と地獄の地形が複雑に折り畳まれていく。幻と現実がひとつにまとまり、どちらでもない景色へと変わっていく。
はなの声に似た響きは、いまや数十もの声に分裂し、合唱のように頭蓋の内側を満たしていた。優しさと恐怖が入り交じり、ひとつを選ぼうとするたび、他のすべてが否定してくる。
――選択のときは、すでに始まっていた。
あの文言が再び頭に蘇る。
塔の残像が最後の閃光を放ち、世界を白く焼き尽くした。
次の瞬間、視界は闇に沈んだ。