意識を引き戻されたはずなのに、戻ってきた場所がどこなのかすぐには判別できなかった。地獄の黒い岩肌でもなく、現世の無機質な空気でもない。そこは、どちらにも属さない中間の場所だった。
足元には確かに感触がある。だが目を凝らしても、地面らしきものは存在しない。透明な膜の上に立っているようで、重心をかけても沈み込むことはなく、逆にわずかに弾かれるような抵抗が返ってきた。
視界に広がるのは、淡い光と影の揺らぎ。輪郭を持たないそれらが、境目を曖昧にしたまま溶け合い、流れていく。
掌を見下ろす。そこにはまだ掴み取った感触が残っていた。温もりとともに、かすかな震えが伝わってくる。それはまるで誰かの指先に触れているかのようで、掴んだものが単なる幻覚ではないことを主張しているかのようだった。
だが、それが「はな」のものなのか、それとも別の存在のものなのか――判断はつかない。選択は確かに行われた。しかし、その結果が何を呼び込んだのか、今の自分には知る術がなかった。
そのとき、背後から声が響いた。佐藤さんのものに似ている。けれども、その響きは現実感に乏しい。音として耳に届いているのか、頭蓋の内側で直接反響しているのかすら曖昧で、距離感を測ることができなかった。
「戻りつつあります。ですが、完全には安定していません」
静かな声。だが、その静けさが逆に不安を際立たせる。佐藤さんがこちらを観測している気配は確かにあるのに、実際の姿は見えない。声だけが、空間のどこからともなくにじみ出るように響いていた。
言葉に反応するように、視界が大きく揺らいだ。淡い光の粒子が水面に投げ込まれた石のように波紋を描き、幾重にも広がっていく。踏みしめていたはずの透明な足場は、すでに不安定にきしみ始めていた。
中間の場所は、静かに崩れつつある。その崩壊は急激ではなく、むしろ緩慢だった。だからこそ、自分がまだ完全には帰還していないことを、嫌でも突きつけられる。
崩れかけた足場が軋むような音を立て、視界の端からひび割れが走っていった。割れ目の向こうには、暗い奈落のような闇が広がっている。引きずり込まれるのではないかという錯覚に襲われ、思わず掌を握りしめる。そこにまだ温もりが残っていることだけが、自分を繋ぎとめる拠り所だった。
次の瞬間、重力の方向が反転したかのように、全身が下へと急激に引きずり込まれる。耳の奥に圧がかかり、呼吸も奪われる。落下というよりも、「地獄へ戻れ」と命じられている感覚に近かった。
目を開けると、そこは確かに見覚えのある地獄の風景だった。灰色の岩肌、湿った空気、ひどく冷たい風。しかし、完全に戻ってきたわけではないことはすぐにわかった。
視界の一部に、現実ではあり得ない色が混じり込んでいた。黒と灰の荒涼とした大地の裂け目に、突如として鮮やかな緑が芽吹いている。そこだけ草原が侵食したかのように、風にそよぐ穂が揺れ、淡い花の香りまで漂ってきた。
「……見えていますか?」
声が近くで響く。振り返ると、佐藤さんが端末を手にこちらを注視していた。彼女の視線は風景そのものではなく、端末に刻まれる数字や揺らぎの波形に向けられている。
「部分的に現れています。観測値に、未登録の反応が刻まれました」
端末の画面に映る記録には、確かに「彼岸由来」としか言いようのない不規則な線が走っていた。規則的な波形ではなく、まるで誰かが意図的に干渉しているかのような軌跡。
草原の残像はやがて風に削られるようにして薄れ、再び地獄の灰色が支配していった。だが、見間違いではない。確かにここに、異質な痕跡が刻まれてしまった。
掌を握り込むと、そこにまだ温もりがあった。崩れかけの余韻ではなく、確かに選び取ったものが、この世界に影響を及ぼしている証拠だった。
◇◇◇
静まり返った荒野の風の中で、胸の奥がざわつき続けていた。
呼吸をするたびに、胸郭の内側から草の香りが微かに滲み出す。灰と硫黄の匂いに混じるはずのないものが、血流にまで染み込んでいる感覚。
――ここに、いるよ。
先ほど掴み取った声の余韻が、まだ脳裏にまとわりついて離れない。単なる幻聴ではなかった。声の残響は確かに身体の内側に沈殿し、心拍と同じリズムで反響している。
視界の端にちらつく緑は、もう草原ではない。ただの荒野の影が、緑の残光にすり替わって見えているだけだ。それでも確かに「在る」と感じてしまう。
地獄と草原、ふたつの風景が同時に上書きされ、どちらが本当の座標なのかを区別できなくなりつつあった。
「種田さん」
佐藤さんの声が現実へ引き戻す。彼女は端末から目を離さず、淡々とした口調で続けた。
「変換進行度が、明らかに加速しています。……これは、あなたの内部で“記録”が確定しかけている兆候です」
「……確定」
「はい。一度でも確定してしまえば、その声や映像は切り離せなくなる。あなた自身の存在に組み込まれ、境界が不明瞭になります」
端末の画面には、じりじりと増加していく数値が示されていた。《変換進行度:63%》。
ただの数字のはずなのに、見ていると胸の奥のざわめきがそれに合わせて大きくなる。
「……ここまで混ざり込むとは、想定していませんでした。普通なら一時的な幻視で終わるはずです。しかし、あなたは――」
言葉を区切り、佐藤さんは小さく息を呑んだ。
彼女の視線は、こちらの瞳に釘付けになっている。
「……瞳孔に、揺らぎが出ています。地獄の観測対象と、彼岸の干渉波が同時に映り込んでいる……」
指摘されるまでもなく、わかっていた。
見えるものが、ひとつに定まらない。地獄の荒野の向こうに草原が重なり、そのさらに奥に誰かの背中が浮かび上がる。
その姿がはなだと直感するたび、理性が否定しようとする。
だが否定すればするほど、残響は濃くなっていった。
胸の奥で波立つざわめきは、もはや無視できるものではなかった。呼吸に合わせて律動するたび、意識がどちらに傾いているのかを測られているようで、居心地の悪さと同時に不可思議な引力を感じる。
視界の先にちらつく緑はすでに消えかけていた。だが、完全に失われることはない。地獄の荒野の影に薄く重なり続け、確かに存在を主張していた。
――在るのか、無いのか。
その問いが、いまや意味を持たなくなりつつある。
「種田さん」
佐藤さんが一歩近づき、低い声で告げた。
「ここで退くのが最善です。これ以上踏み込めば、変換は取り返しのつかない段階に進みます。……あなた自身の“境界”が曖昧になる」
言葉は冷静だったが、瞳の奥に宿る光は真剣そのものだった。警告ではなく、懇願に近い響きがそこにあった。
だが、その忠告を受け止めながらも、胸の奥から別の声が立ち上がる。
――ここにいる。
――まだ、つながっている。
はなの声。
それを手放すことはできなかった。
ゆっくりと目を閉じ、息を吐く。重い空気が肺を満たし、頭の中に沈殿していた残響が一層くっきりと浮かび上がる。
「……わかっています」
かすれた声が、自分の口から零れた。
退くことが安全だとわかっている。だがそれでも、進むしかない。
「選んでしまった以上、もう引くわけにはいかないんです。あの声が本当に“はな”であるなら……確かめる必要があります」
佐藤さんはしばし沈黙した。端末の画面を見つめ、その光を瞳に反射させる。その横顔には、葛藤と諦念が交錯していた。
「……承知しました」
短い返答と共に、端末の操作音が響く。幾つもの波形が画面上に走り、数値が新たに刻まれていく。
「ただし、覚悟してください。次に開く座標は、おそらく“彼岸”に近い領域です。記録の干渉は強まり、戻れなくなる可能性もある」
頷く。
たとえ戻れなくとも、進むしかない。
遠く、見えない草原の残響が揺れていた。
それは確かに、こちらを待っている。