地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

162 / 186
裂け目の向こうから

 裂け目は呼吸するように膨らんでは縮み、まるで生き物の口腔を覗き込んでいるかのように、不規則な脈動を繰り返していた。

 

 その向こうから漂ってくる気配は、どこか懐かしく、それでいて正体のわからない圧力を孕んでいる。空間そのものが軋み、耳鳴りが続く。

 

 ――おとうさん。

 

 声が届いた。

 確かに知っている響き。血の奥に刻まれた呼びかけ。それなのに、そこには違和感があった。わずかな歪みが混じっている。言葉の端に、微かに別の存在が寄り添っているのがわかる。

 

 はなだ。間違いない。だが同時に、それだけではない。

 

 「……聞こえましたか」

 

 横に立つ佐藤さんが、静かに問いかけてくる。

 声が揺れる空気の中で、彼の声音だけが一定の温度を保っていた。

 

 「呼びかけに応じてはなりません」

 

 淡々とした言葉の裏に、鋭い警戒の気配が潜んでいる。

 それでも、胸の奥に疼く衝動を抑えることは難しかった。差し伸べられた手に応えたい。失われたものを取り戻したい。そんな思いが、理性を侵食していく。

 裂け目の奥から、もう一度声がした。

 

 ――おとうさん。

 

 その一音ごとに、足元の地面が薄く揺らぎ、中間の場所の輪郭が曖昧になる。

 指先が勝手に震え、伸びかける。

 

 だが、すぐ横で佐藤さんの気配が強くなった。彼の視線が、こちらの動きを封じるように絡みついてくる。

 

 「それは試みです。確かに“はな”を模した呼びかけではありますが、その背後には別の意図が潜んでいる可能性が高い。……応じれば、後戻りはできなくなります」

 

 声の意味を理解するよりも先に、胸に渦巻く衝動を押さえ込むことの方が難しかった。

 裂け目は広がりつつあり、その奥に“何か”が近づいてくる。

 

 裂け目は、不意に水面のような揺らぎを見せた。

 そこに映ったのは、草の匂いを連想させる青い光。ほんの一瞬、草原の断片が覗き込むように現れる。次の瞬間には、灰色の街並みが重なった。

 

 見慣れた現世の風景。信号機、電線、歩道を歩く人影――だが、すべてはガラス越しに歪んだ映像のように定まらない。

 胸が強く締めつけられた。

 

 あそこに手を伸ばせば、はながいる。そんな錯覚が、呼吸よりも早く膨らみ、指先を突き動かそうとする。

 

 「……はな……」

 

 声にならない囁きが漏れる。

 その瞬間、横から強い気配が押しとどめた。佐藤さんが一歩近づき、低い声を落とす。

 

 「駄目です。見せられています。呼びかけに応じてはいけません」

 

 言葉と同時に、裂け目の表面が波紋を広げるように震え、黒い影が浮かび上がった。

 それは“手”の形をしていた。骨と皮膚の境目を持たない、曖昧な輪郭の手。こちらへ伸びかけ、空気に溶けるように消えていく。

 

 その繰り返しが続くたび、裂け目の奥から吹き込む気配はますます濃くなっていった。

 影の指先が、何度目かに目の前まで迫る。触れようとすれば、簡単に届いてしまいそうな距離だった。

 しかし佐藤さんの声がそれを断ち切る。

 

 「呼んでいるのが“はな”である保証は、どこにもありません」

 

 冷ややかな言葉に、胸の奥の熱が一瞬で冷え込む。

 わかっている。それでも、衝動は消えない。

 伸ばしかけた手をどうにか抑え込みながら、裂け目の揺らぎを凝視し続けた。

 

 裂け目から吹き込む風のような圧に晒されながら、視界の端で端末が淡く点滅した。

 無意識に視線を落とすと、そこには前回と同じ表示が浮かんでいた。

 

 ――変換進行度:47%

 

 数値は確実に進んでいる。

 さらに、表示の下に新しい項目が滲み出すように現れた。

 

 ――接続先:彼岸

 

 瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 文字列は機械的なものに見えるのに、なぜか生々しい感触を伴って迫ってきた。

 

 「……彼岸」

 

 口の中で転がすように呟くと、佐藤さんの表情が揺らいだ。

 普段は微動だにしない彼の顔に、わずかに影が差す。その沈黙が答え以上に雄弁だった。

 

 「彼岸との直接接続が始まっています。これまでの観測とは性質が異なります」

 

 低く告げられた声が、耳の奥で重く響く。

 裂け目の奥から、再び声が聞こえてきた。

 

 ――おとうさん。

 

 今度はよりはっきりと、鮮明に。

 

 呼びかけは確かに“はな”のものだと感じられた。鼓動が荒くなる。

 近づける。

 ようやく届く。

 

 そんな期待が、胸を満たしていく。

 だが同時に、理性のどこかが叫んでいた。

 これは罠だ。

 その“期待”こそが、向こう側にとっての入口になる。

 

 「……」

 

 言葉が出ない。

 佐藤さんの視線が鋭くこちらを射抜く。彼の眼差しは、感情を排した観測者そのものだった。

 

 「惑わされてはいけません。その感覚自体が、仕組まれたものです」

 

 胸の内に膨らむ熱は、確かに自分のものだ。

 だがその熱が、彼岸の呼び水に過ぎないのだとしたら――。

 

 裂け目は、唐突に収縮を始めた。

 それまで拡張と収縮を繰り返していた呼吸が途絶え、空間の縫い目が強引に閉じられていく。耳の奥で甲高い音が響き、地面そのものがきしむように揺れた。

 思わず一歩踏み出しかけた足を、佐藤さんの気配が押し止める。

 

 伸ばしたい、掴み取りたいという衝動は、まだ胸の奥で燃えていた。それでも、強引に閉ざされていく光景を前に、なすすべもなく立ち尽くすしかなかった。

 裂け目が完全に消える直前、最後の声が届いた。

 

 ――待ってる。

 

 今度の呼びかけは、濁りも歪みもなかった。

 はなの声。何よりも鮮明で、直接的で、抗いがたい響き。

 胸を抉られるような感覚に、思わず息を詰めた。

 沈黙が戻った“中間の場所”に、ざらついた静寂だけが広がる。

 

 心臓の鼓動が耳の奥で荒々しく鳴り続け、息を整えることができない。

 

 「……今のは」

 

 声が震えていた。

 はなの声だと確信している。だが、それを口にすることが恐ろしくもあった。

 佐藤さんは、わずかに目を伏せたのち、淡々と告げる。

 

 「はい。今のは確かに彼岸からの呼びかけです」

 

 その言葉に、胸の奥の熱が一層強くなった。

 はなは向こうにいる。待っている。

 その確信は甘美でありながら、同時に罠の匂いを纏っていた。

 

 衝動を抑え込みながら、次の接続に備えるしかない。

 はなの声に応えるためか、それとも罠を断ち切るためか――その答えは、まだ自分の中で定まっていなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。