裂け目は呼吸するように膨らんでは縮み、まるで生き物の口腔を覗き込んでいるかのように、不規則な脈動を繰り返していた。
その向こうから漂ってくる気配は、どこか懐かしく、それでいて正体のわからない圧力を孕んでいる。空間そのものが軋み、耳鳴りが続く。
――おとうさん。
声が届いた。
確かに知っている響き。血の奥に刻まれた呼びかけ。それなのに、そこには違和感があった。わずかな歪みが混じっている。言葉の端に、微かに別の存在が寄り添っているのがわかる。
はなだ。間違いない。だが同時に、それだけではない。
「……聞こえましたか」
横に立つ佐藤さんが、静かに問いかけてくる。
声が揺れる空気の中で、彼の声音だけが一定の温度を保っていた。
「呼びかけに応じてはなりません」
淡々とした言葉の裏に、鋭い警戒の気配が潜んでいる。
それでも、胸の奥に疼く衝動を抑えることは難しかった。差し伸べられた手に応えたい。失われたものを取り戻したい。そんな思いが、理性を侵食していく。
裂け目の奥から、もう一度声がした。
――おとうさん。
その一音ごとに、足元の地面が薄く揺らぎ、中間の場所の輪郭が曖昧になる。
指先が勝手に震え、伸びかける。
だが、すぐ横で佐藤さんの気配が強くなった。彼の視線が、こちらの動きを封じるように絡みついてくる。
「それは試みです。確かに“はな”を模した呼びかけではありますが、その背後には別の意図が潜んでいる可能性が高い。……応じれば、後戻りはできなくなります」
声の意味を理解するよりも先に、胸に渦巻く衝動を押さえ込むことの方が難しかった。
裂け目は広がりつつあり、その奥に“何か”が近づいてくる。
裂け目は、不意に水面のような揺らぎを見せた。
そこに映ったのは、草の匂いを連想させる青い光。ほんの一瞬、草原の断片が覗き込むように現れる。次の瞬間には、灰色の街並みが重なった。
見慣れた現世の風景。信号機、電線、歩道を歩く人影――だが、すべてはガラス越しに歪んだ映像のように定まらない。
胸が強く締めつけられた。
あそこに手を伸ばせば、はながいる。そんな錯覚が、呼吸よりも早く膨らみ、指先を突き動かそうとする。
「……はな……」
声にならない囁きが漏れる。
その瞬間、横から強い気配が押しとどめた。佐藤さんが一歩近づき、低い声を落とす。
「駄目です。見せられています。呼びかけに応じてはいけません」
言葉と同時に、裂け目の表面が波紋を広げるように震え、黒い影が浮かび上がった。
それは“手”の形をしていた。骨と皮膚の境目を持たない、曖昧な輪郭の手。こちらへ伸びかけ、空気に溶けるように消えていく。
その繰り返しが続くたび、裂け目の奥から吹き込む気配はますます濃くなっていった。
影の指先が、何度目かに目の前まで迫る。触れようとすれば、簡単に届いてしまいそうな距離だった。
しかし佐藤さんの声がそれを断ち切る。
「呼んでいるのが“はな”である保証は、どこにもありません」
冷ややかな言葉に、胸の奥の熱が一瞬で冷え込む。
わかっている。それでも、衝動は消えない。
伸ばしかけた手をどうにか抑え込みながら、裂け目の揺らぎを凝視し続けた。
裂け目から吹き込む風のような圧に晒されながら、視界の端で端末が淡く点滅した。
無意識に視線を落とすと、そこには前回と同じ表示が浮かんでいた。
――変換進行度:47%
数値は確実に進んでいる。
さらに、表示の下に新しい項目が滲み出すように現れた。
――接続先:彼岸
瞬間、背筋に冷たいものが走る。
文字列は機械的なものに見えるのに、なぜか生々しい感触を伴って迫ってきた。
「……彼岸」
口の中で転がすように呟くと、佐藤さんの表情が揺らいだ。
普段は微動だにしない彼の顔に、わずかに影が差す。その沈黙が答え以上に雄弁だった。
「彼岸との直接接続が始まっています。これまでの観測とは性質が異なります」
低く告げられた声が、耳の奥で重く響く。
裂け目の奥から、再び声が聞こえてきた。
――おとうさん。
今度はよりはっきりと、鮮明に。
呼びかけは確かに“はな”のものだと感じられた。鼓動が荒くなる。
近づける。
ようやく届く。
そんな期待が、胸を満たしていく。
だが同時に、理性のどこかが叫んでいた。
これは罠だ。
その“期待”こそが、向こう側にとっての入口になる。
「……」
言葉が出ない。
佐藤さんの視線が鋭くこちらを射抜く。彼の眼差しは、感情を排した観測者そのものだった。
「惑わされてはいけません。その感覚自体が、仕組まれたものです」
胸の内に膨らむ熱は、確かに自分のものだ。
だがその熱が、彼岸の呼び水に過ぎないのだとしたら――。
裂け目は、唐突に収縮を始めた。
それまで拡張と収縮を繰り返していた呼吸が途絶え、空間の縫い目が強引に閉じられていく。耳の奥で甲高い音が響き、地面そのものがきしむように揺れた。
思わず一歩踏み出しかけた足を、佐藤さんの気配が押し止める。
伸ばしたい、掴み取りたいという衝動は、まだ胸の奥で燃えていた。それでも、強引に閉ざされていく光景を前に、なすすべもなく立ち尽くすしかなかった。
裂け目が完全に消える直前、最後の声が届いた。
――待ってる。
今度の呼びかけは、濁りも歪みもなかった。
はなの声。何よりも鮮明で、直接的で、抗いがたい響き。
胸を抉られるような感覚に、思わず息を詰めた。
沈黙が戻った“中間の場所”に、ざらついた静寂だけが広がる。
心臓の鼓動が耳の奥で荒々しく鳴り続け、息を整えることができない。
「……今のは」
声が震えていた。
はなの声だと確信している。だが、それを口にすることが恐ろしくもあった。
佐藤さんは、わずかに目を伏せたのち、淡々と告げる。
「はい。今のは確かに彼岸からの呼びかけです」
その言葉に、胸の奥の熱が一層強くなった。
はなは向こうにいる。待っている。
その確信は甘美でありながら、同時に罠の匂いを纏っていた。
衝動を抑え込みながら、次の接続に備えるしかない。
はなの声に応えるためか、それとも罠を断ち切るためか――その答えは、まだ自分の中で定まっていなかった。