一瞬目がチカチカと光った。一体なんだろうと思ったが瞼が動かない。
ようやく瞼が開くようになると、世界がひどく小さくなっていた。視界は狭く、焦点が合わない。すべてが乳白色の膜越しに見えるようで、輪郭はにじみ、光は柔らかく拡散している。手を伸ばそうとしたとき、そこに伸びるはずの腕はろくに動かず、力はまるで別の誰かのものだった。
声を出そうとしてみる。言葉を紡ぐつもりで舌を動かすと、喉からは高く細い泣き声だけが漏れた。思考はいつもの私のまま――種田柿彦だという認識は消えていないのに、外へ出る手段がことごとく奪われている。内側で組み立てた文節は、皮膚の下で砕け散り、音になっては還元されてしまう。
周囲は、胎内にも地獄にも似たあいまいな空間だった。薄い膜のような霞が視界を埋め、そこに臍の緒を思わせる暗い線が絡まりながら浮遊している。遠景と近景の区別が曖昧で、近くにあるはずのものが遠くにあり、遠くの気配が急に手元に落ちてくる。風も音もないのに、体の表面には常時微かな振動が伝わってくる。温度は一定で、湿り気が常に肌を覆っている感触がある。
記憶は切り貼りされている。仕事場の蛍光灯、観測塔の鉄の匂い、誰かの低い笑い声――断片だけが断続的に差し込む。だがそれらは説明にならない。説明するための声も、説明を聞かせるための距離もない。思考の速度だけがいつもより速く、しかし出力できない。たとえ心の底で「ここはどこだ」と問うても、返ってくるのは自分自身の泣き声だけだった。
何より苛立たしいのは、私という核が細くなっていく感覚だ。記憶と身体感覚がずれ、私が私であるという確信がいつのまにか薄れていく。子どもの身体に宿った大人の意識――その不釣り合いさが、皮膚の奥で微かな疼きを生む。守るべきもの、取り戻すべきものがあると漠然と感じる一方で、手の届かない場所からそれは遠ざかっていく。
薄い膜の向こう、遠くで誰かが呼んでいる気配がした。声の輪郭はまだ届かない。ただ、そこに誰かの息づかいがあって、それが私を識別しようとしていることだけは分かる。必死にもがくしかできない状態で、名前を呼ぶ音が次第に近づいてくる──その気配は、私の中でかすかな灯火を揺らした。
霞の向こうから、はっきりとした声が差し込んできた。
「……種田さん、聞こえますか」
低く抑えた調子だった。呼びかけの言葉は確かに私を指しているのに、その声色はどこか遠く、膜を隔てて響いているように感じられる。私は必死に返事をしようと口を動かすが、喉から漏れるのはしゃくりあげるような泣き声だけだった。
「落ち着いてください。今はそれしか出せなくて当然です」
佐藤さんの声は変わらない。焦りもなく、ただ状況を説明するためにだけ発せられている。彼は私がどんな姿に置かれているのか、すでに理解しているらしい。
「変換は最終局面に入っています。意識と器のあいだが分離しかけています。このままでは、種田さんという輪郭そのものが拡散してしまうでしょう」
言葉は容赦なく冷静だ。私は必死に泣き声を押し出しながら、せめて「まだここにいる」と伝えようとする。しかし返ってくるのは、空気を震わせるだけのかすかな啼き声で、言葉にはならない。
それでも佐藤さんは続ける。
「存在を繋ぎ止めるには、選択が必要です。どの方向に留まりたいのか、決めなければなりません」
霞の奥で声が揺れ、重なり、反響する。選択――その語だけがはっきりと突き刺さった。
私は「分かっている」と答えたいのに、声は嗚咽のように詰まり、視界がにじんだ。けれどそのにじみのなかで、世界がわずかに揺らぎ、まるで意思が反映されたかのように視点が傾いた。
佐藤さんは小さく息をつき、言葉を重ねる。
「……ええ、そうです。その揺らぎが答えになります。言葉でなくとも構いません」
泣き声しか持たない私に向けられたその説明は、奇妙に穏やかで、それでいて決定を急かすようでもあった。
次の瞬間、霞の中にいくつもの影が揺れはじめる。私の姿をしたものが、幾つも。
──その一つを選ばなければならないのだと、直感が告げていた。
霞の濃淡がゆっくりと分かれ、輪郭を持ちはじめた。そこに現れたのは、自分自身の姿だった。だが一つではない。複数の「自分」が、乳白色の空間に並び立つように浮かんでいる。
最初の一人は、赤子の姿を保ったまま、霞の中に沈んでいこうとしていた。泣き声だけを頼りに生き、やがて溶けるように消えていく存在。
次の一人は、霞の向こう――はるか遠くの、色のない川の流れに引きずられている。彼岸へ向かう「私」だった。表情も輪郭も薄れ、名を持たぬ影に変わろうとしている。
最後の一人は、地獄の岩肌の前に立っていた。観測塔の影を背に、端末を胸に抱え、無理やり縫い止められるように地に根を下ろす存在。
それらはすべて「自分」であり、どれも否定できない。目にした瞬間から、三つとも同じ重さをもって迫ってきた。
「……種田さん。見えているはずです」
佐藤さんの声がまた響く。冷静さは変わらないが、淡々とした説明の裏に、わずかな緊張がにじんでいた。
「そのうちの一つをこちらへ固定しなければ、すべてが零れ落ちます。選ばなければ、どの姿も残りません」
選択。
その言葉が頭の奥で反響し、三つの「私」の影を揺らした。
私は泣き声しか出せないまま、胸の奥から沸き上がる衝動に身を委ねる。言葉ではなく、体を通り抜ける震えのようなもので答えを出そうとする。
すると視界が傾き、霞がひとつの方向にだけ濃く寄っていった。まるで誰かに手を引かれるように、私は「戻る方角」へと傾いていく。
選んだのだ。
選んでしまったのだ。
けれど、その決定の直後、視界の隅で別の影がちらついた。
赤子の泣き声のさらに奥――そこに、はなの小さな姿が揺らめいていた。
霞の裂け目から差し込んだのは、確かに「はな」の影だった。小さな輪郭が一瞬だけ現れ、こちらを振り返るように揺れる。その姿に胸がかきむしられる。声をかけたくても、喉からはまだ啼き声しか出ない。
けれど、その泣き声の奥に、別の響きが走った。
――呼んでいる。
言葉にはならないが、確かに「はな」を求める感覚だけがまっすぐ突き上げてくる。
その衝動に応じるように、霞が激しく波打ち、白い膜が裂けていく。向こうから滲み出したのは、見慣れた地獄の光景だった。観測塔の影、黒く濡れた大地、鉛のような空気。ここが居場所なのだと、体の奥に刻みつけられる。
次第に泣き声は細り、呼吸が大人のものへと戻っていく。赤子の肉体感覚は後退し、骨格と筋肉の重さが再び「私」に返ってくる。観測者としての視界が戻り、端末の光がはっきりと目に映った。
だが完全ではなかった。胸の奥にはまだ、微かな啼き声が残っている。まるで体内に別の鼓動が巣食っているかのように、小さな気配が消えずに居座っていた。
私は荒い息をつきながら、自分が“戻ってきた”ことを理解する。だが同時に、何かを連れ込んでしまった不安も否応なく広がっていく。
端末が小さく震え、画面に新しい数値が浮かび上がった。
「変換率 92%」
無機質な文字がそこに定着するのを見た瞬間、背筋が冷たくなった。
物語はまだ終わっていない――その事実を突きつけられながら、息を呑んだ。