観測塔の空気は、静けさよりも不安を孕んでいた。
足元から伝わる冷たい感触は石でも鉄でもなく、触れているはずなのに質量を持たない。壁に目を向けると、そこに張り付いた金属板がわずかに波打ち、まるで呼吸するかのように膨らんでは縮んでいた。
視界の端で、地獄の荒涼とした風景が揺れている。血の匂いと焦げた土の色。しかし同時に、そこに重なるようにして白い空と草原が広がっていた。見たことのある景色。あの異様な草原が、二重露光の映像のように重なり、片方の世界を透かしながらもう片方を侵食していく。
目を凝らしても、どちらが現実かは判別できなかった。境界が曖昧になり、視線を動かすたびに景色が揺らぐ。
隣では佐藤さんが端末を握り、冷静に記録を続けている。
だが端末の表示は正常とは程遠かった。数字が止まることなく上下を繰り返し、まるで安定する意思を持たないかのように暴れていた。
「次の接続予定時刻」──そこに刻まれた数字は数秒ごとに書き換わり、固定される瞬間は一度も訪れない。時刻が近づいているのではなく、そもそも観測の基盤そのものが乱れているように見えた。
喉の奥がひどく乾く。視界と感覚の境目が崩れ、立っている自分の姿さえ曖昧になる。
そのただ中で、佐藤さんの指だけが一定のリズムで動き、端末に触れる音が冷たく響いていた。
塔の壁に埋め込まれた計測装置が、不規則に明滅を繰り返していた。
緑、赤、青──色彩は意味を成さないまま乱舞し、観測塔全体がひとつの鼓動のように震えている。
そのざわめきの中で、胸の奥に潜む小さな気配が強く反響した。
かすかな泣き声。耳で聞こえるのではなく、血流と一緒に体内を駆け巡るような響き方。思わず胸に手を当てると、確かにそこに「別のもの」が同居しているのがわかった。
「……幼体反応、増幅しています」
佐藤さんの声が低く響く。端末の光に照らされた横顔は冷静そのものだが、その眉間にはわずかに影が差していた。
「これは不安定です。このまま同調が進めば、地獄側の構造に影響を及ぼす可能性が高い」
目を凝らすと、草原と地獄の風景が交互に点滅するように現れては消える。
まるで「はな」の気配が境界を押し広げ、塔そのものに別の世界を浸透させているように見えた。
「切り離すんですか」
自分の声がひどく掠れていた。
佐藤さんは首を振った。
「いずれ判断は必要でしょう。ですが現段階では……完全に失われてはいない」
その言葉が、救いであると同時にさらなる不安を煽った。
まだここにいる。だが、その存在は確かなものではなく、どちらの世界にも属さずに揺れている。
観測塔の空気がきしむ。
耳鳴りのような高音が広がり、床の石材までもが震えているのを足裏で感じ取った。
塔の奥から、低い地鳴りのような音が広がった。
計測装置の光点が一斉に散り、床下から吹き上げる気配が空間を震わせる。
観測塔そのものが呼吸を始めたかのようだった。
「……接続が再開されつつあります」
佐藤さんが端末を操作する。
その画面に浮かんだ文字列が、背筋を冷やした。
――【接続先:不明】
――【付随存在:幼体反応 感度上昇】
数字は刻一刻と変化し、安定する気配はなかった。
境界が再び開こうとしている。
その奥に、はながいる。直感的にそう理解できた。
胸の奥で、泣き声がかすかに変調する。
啼き声は次第に形を帯び、言葉になる直前でほどけていく。
理解できないのに、どうしようもなく懐かしい響きだった。
「……呼んでいますね」
佐藤さんの視線が、じっとこちらに注がれている。
「種田さんが選択を固定したことで、別の存在もまたこちらに縫い止められた。いま、境界がその“結果”を受け止めようとしています」
視界の端で、石壁が乳白色ににじむ。
それは草原に似ているが、完全に同じではない。
子どもの姿を形づくろうとしてはほどけ、断片だけを残す。
思わず一歩踏み出そうとした足を、佐藤さんの声が止めた。
「早計に近づくのは危険です。いまは、観測が優先です」
冷たい響きの中に、わずかな警告の色があった。
それでも、胸の奥からはなお、あの存在が確かにこちらを求めている気配が響き続けていた。
観測塔の壁面に刻まれた裂け目が、ひときわ強く輝いた。
その奥に広がるのは、どこまでも淡い光に満ちた空間。
霞のようにゆらめく景色の中で、小さな影が確かに蠢いている。
呼吸が荒くなる。
胸の奥で鳴り続けていた啼き声が、今度は外界と共鳴するように響き渡った。
影がこちらを振り返った気がした。
「……はな」
その名を口にすると、空気の震えが増した。
塔全体がきしみ、計測装置の光が暴発する。
「接触が近い」
佐藤さんの声は冷静だが、目の奥には強い緊張が潜んでいた。
「ですが、この形での出現は不安定です。取り込むか、切り離すか──判断はすぐには下せません」
足元の床石が波打つように揺れた。
光に包まれた裂け目からは、乳白色の風が吹き込み、衣服をかすかに揺らす。
その風には、確かに“はな”の気配が混じっていた。
「境界が完全に開けば、存在は流れ込んできます」
佐藤さんは端末を強く握りしめる。
「この場での観測は、すでに臨界に近い」
胸の奥で響く声は、泣き声ではなくなっていた。
言葉にはならない。
けれど、たしかに“こちらを求める”響きへと変わっていた。
観測塔を満たす震動の中で、その気配だけが揺るがずに残り続けていた。