観測塔を出てしばらく歩くと、視界に濃い霧が広がり始めた。地面に張りつくような白さではなく、空から垂れ下がるように漂う霧だ。足音が鈍く吸い込まれ、辺りの輪郭がぼやけていく。
佐藤さんが立ち止まり、端末を操作して周囲の波形を確認していた。光の粒が端末の縁に沿って流れ、じわじわと波形が乱れていくのが見える。
「種田さん。変換の濃度が、ここで一段階上がっています」
声は落ち着いていたが、言葉の背後には明らかな緊張があった。霧の奥で何かが動いている気配がする。耳を澄ますと、水滴が地に落ちる音や、衣擦れのような擦過音が混じる。
霧の向こうで、かすかに草原の色が混ざった。ありえないはずの緑が、地獄の土ににじむように滲んでいる。手を伸ばせば触れられる距離に、現世の風景が重なってきていた。
それは幻覚なのか、それとも「彼岸」からの接触なのか。判別がつかない。
佐藤さんは霧の濃さを測るように目を細め、端末をこちらに向けた。
「この揺らぎ、彼岸との接続が近いかもしれません。……ただ、予定より早すぎる」
霧の中に、影のようなものが一瞬だけ浮かんだ。人影に似ていたが、次の瞬間には溶けるように消えていった。
霧の中に、再び人影のようなものが揺らいだ。今度ははっきりと輪郭を持ち、こちらを向いて立っているのがわかる。
目を凝らすと、それは誰かの背中に似ていた。輪郭は安定せず、淡い光と影が交互に浮かび上がる。耳の奥に直接響くような声が、霧の内側から届いた。
『……戻ってこい』
低く、湿った声だった。けれど、その言葉には聞き覚えがある。胸の奥を揺さぶられるような響きで、まるで過去の記憶が呼び起こされる感覚が走った。
佐藤さんが素早く端末を構え、波形を固定する。
「種田さん、気を取られないでください。これは“誘引”です。応答すれば、接続が確定します」
忠告を受けても、声はなおも耳にまとわりつく。
『帰る場所は、こちらだ』
『忘れるな……』
次々とささやきが重なり、霧の奥から伸びるように影が揺れる。ひとつの影が二つに分かれ、二つが三つへと増えていく。すべてが同じ声を持ち、同じ言葉を繰り返していた。
足元の感覚が揺らぎ、固い地面のはずが柔らかな草を踏んでいるように錯覚する。靴底から伝わるのは、土ではなく草原の湿った弾力。視界の端に、あの緑の草が広がり始めていた。
佐藤さんの声が鋭く響いた。
「種田さん、ここは選択を迫られる局面です。視線を固定してください。霧の奥を直視してはいけません」
言葉に従い、無理やり視線を逸らすと、影は歪みながら霧へと溶けていった。しかし声だけは、耳の奥に残り続ける。
霧が音を吸い込み、世界の境界そのものが曖昧になっていく。わずかに残っていた岩肌の輪郭も、次の瞬間には草の絨毯に置き換わっていた。緑が広がる視界と、硫黄の臭いを含んだ地獄の空気が混じり合い、二つの風景がせめぎ合っている。
草原の中央に、小さな影が立っていた。幼い輪郭。振り向けば、そこに「はな」がいる。けれど顔は霞み、はっきりとは見えない。
呼びかけたい衝動が胸を突き上げる。しかし声を出せば、すべてを失うような直感があった。
その瞬間、別の影が現れる。背丈は低く、身体は細く歪んでいた。形を保とうとしながらも、まるで映像のノイズのように崩れ続ける。数字のタグが頭に浮かぶ――「#0067」。
両者は一定の距離を隔てて向かい合い、揺らめいている。どちらもはっきりとは実体を持たず、こちらを見ているようで見ていない。
佐藤さんが低く言った。
「観測対象が二重に出ています。……種田さん、今はまだ選択の段階に入りません。ただし、いずれ必ず決断を迫られます」
足元の地面が揺れ、草原と地獄が交互に現れる。片足は柔らかい土を踏み、もう片足は熱い岩盤を踏んでいた。世界が二つに裂け、その裂け目の上に立たされているようだった。
霧はさらに濃くなり、視界を奪いながらも、両者の影だけは消えなかった。
霧の中で、二つの影が同時にこちらへ歩み出した。幼い輪郭と、歪んだ存在。足音は響かない。けれど、確かに近づいてくる。
胸の奥で鼓動が強く打ち、呼吸が浅くなる。触れたい、呼びかけたい――その衝動と同時に、底知れぬ恐怖が全身を縛り付けた。どちらも「はな」であるようで、どちらもそうではないように見えた。
耳元で佐藤さんの声がした。
「観測を保ってください。干渉は禁じます」
それは命令でもあり、祈りにも似た響きだった。
影が目前に迫った瞬間、世界が軋む音がした。草原が一気に色を失い、黒い闇に引き込まれる。視界は真白に反転し、熱と冷気が同時に流れ込んできた。
次の瞬間――目の前から影が消え、霧も風景もすべて断ち切られていた。残ったのは、観測塔の石床と、冷たい空気だけ。
息を整える間もなく、佐藤さんが短く告げた。
「本格的な接続が始まります。次で、はっきりと現れるでしょう」
足元は確かに地獄の岩盤に戻っていた。けれど胸の奥には、まだ霧の残滓が張り付いていた。