地獄の沙汰も君次第   作:Marks_Lee

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三つの軸編
三人


 廃墟の集落は、昼下がりの薄い光に晒されていた。瓦礫の縁に生えた枯れ草が風にそよぎ、細かな砂塵が足元で渦を巻く。遠くで、どこかの屋根が崩れる音が一度だけ響いた。その音を聞いても、ここにいる誰も顔を上げない。静寂は慣性のように続き、時間だけが滑るように流れている。

 

 巻尾は静かに作業を続けている。両手は慣れた動きで古びた布を畳み、壊れかけた扉の蝶番に油を差し、壊れた窓枠の隙間に小さな紙片を挟む。どれも一見すると雑務に過ぎないが、その仕草は意味を帯びていた。布を畳むたびに、指先が迷いなくしわを伸ばす。油を差すとき、彼女はわずかに息を吐き、窓枠に紙片を挟むときは視線が一点に固まる。その所作に、守ることを仕事として身体に落とし込んだ人間の淡い厳しさが映る。

 

 端から見れば忍耐と勤勉だが、巻尾の内面はそれだけではない。作業の合間にふと立ち止まり、遠くを見つめるとき、瞳の奥に過去の光景がちらつく。閉ざされた扉、燃え残った布、そして急に消えた声。記憶は欠片のように散らばり、それらを拾い集める術を彼女は知っている。拾うたびに、守るべき何かが明確になる一方で、守り続けることの重さが胸の奥に堆積していく。

 

 守るという行為は、彼女にとって単なる職務以上のものだった。守ることは習慣になり、習慣は戒律になり、戒律は孤独になった。誰かを守るために夜を徹した日々は、いつの間にか自分自身を領地の外に追いやっていた。時折、笑い声や子供の足音の幻が耳に残ると、その音を追う自分と、そこから目を逸らさせる自分の間で心が揺れる。守る対象が誰であるかを問い直す暇はない。ただ「守らねばならない」という命題が先にあり、行動がそれに従っている。

 

 それでも、手仕事には迷いが見える瞬間がある。紙片を挟む手が一瞬震え、彼女は息を詰める。震えを抑えるために、ゆっくりと肩を回し、視線を地面に落とす。そのときの静けさは、彼女が抱える矛盾を知らせる音のように聞こえる。守ることが及ばない領域が存在する。それを知りながらも、なお守ろうとすることの苛烈さを、自分の身体で確かめている。

 

 作業を続けるうちに、どこからともなく人の足音が近づいてきた。巻尾は一瞬、動きを止める。顔に出さないように呼吸を整え、手を拭ってからゆっくりと振り向く。目に入るのは、いつもの顔ぶれかもしれないし、違う選択を突きつける者かもしれない。だが今はまだ情報が少ない。守るための準備は整っている。胸の奥で小さな決意が再び固まるのを彼女は感じた。

 

 ◇◇◇

 

 足音は重く、地面を確かめるように一定の間隔で響いていた。姿を現したのは轟だった。肩幅の広い体つき、抑えた息遣い、その全てが「任務中の人間」の気配を纏っている。

 

「巻尾さん」

 

 短く名を呼ぶ声に、感情の揺らぎはなかった。轟は立ち止まり、周囲を一度見渡す。その目は獲物を探す猟犬のようであり、同時に「余計なものを映さない」と決めた人間の硬さがあった。

 巻尾さんは手を止めずに返す。

 

「何か、あったスか?」

 

 声は落ち着いていたが、胸の内には微かな緊張が走っていた。轟は必要のあるときしか言葉を選ばない。だからこそ、こうして足を運んできたこと自体に意味があるとわかる。

 

「異常はない。だが……油断はできない」

 

 轟の言葉は相変わらず直線的だ。守ろうとする巻尾さんの在り方と違い、彼の中では「備え」や「手順」がすべてであり、そこに感情が入り込む余地はない。

 巻尾さんは小さく頷く。その心には、彼の姿が羨ましいとさえ思える感覚が一瞬だけよぎる。自分が抱える逡巡や記憶のざわめきから切り離され、ただ任務に従い続ける轟の姿勢。だが同時に、その硬さが彼をどれほど縛っているかを想像し、胸の奥に重苦しいものが沈む。

 

 轟もまた、巻尾を一瞥しながら考えていた。彼女が細かく環境を整える姿勢は、時に無駄に思える。だが、その無駄が人を守っているのかもしれないことも理解している。理解していながら、それを自分はできない――そういう諦めが轟の中に張り付いている。

 二人の間に長い沈黙が落ちた。

 

 会話は続かない。互いに踏み込むことを避け、ただ相手の存在を認めるだけの間合いが流れる。

 

 やがて轟が踵を返し、歩き出そうとした瞬間、別の方向から軽やかな足音が近づいた。巻尾と轟が同時に振り向く。砂塵を蹴って現れたのは江藤さんだった。

 その顔にはかすかな笑みが浮かんでいたが、それは場の空気を和らげるためか、それとも自分自身を保つためか――誰にも断定できなかった。

 

 ◇◇◇

 

 廃墟の広場に三人が揃う。夜の闇が街を包み、瓦礫の影は揺らめく。微かな風に砂が舞い、足元で柔らかく渦を巻く音が聞こえた。空気は冷たく、静かすぎるほどに静かだった。

 

 轟は無言で懐から煙草を取り出す。火を点けることはせず、指先で弄ぶだけで、緊張を誤魔化そうとしている。その仕草を見て、巻尾はわずかに眉をひそめた。彼が感情を表に出さないことは知っている。それでも、緊張の粒が手の動きに滲むのを見逃さなかった。

 

「……やっぱり妙っスね」

 

 巻尾の声は小さいが、確かな警戒が込められていた。瓦礫の影に潜む何かを、無意識に探しているのだ。

 江藤は肩をすくめながら、軽い笑みを浮かべて言った。

 

「気のせいじゃありませんか」

 

 しかしその声は、微かに震えている。自分を落ち着かせるための笑みであることが、すぐにわかった。みな言葉にしようと口を開くが、「大丈夫」と言い切る自信がなく、口の奥で言葉が止まる。

 

 広場の奥から、確かに誰かの視線が迫る気配がした。姿はない。ただ、空気の密度だけが変わったように感じる。種田は自然と背筋を伸ばし、心臓の鼓動を意識する。数を数えるたびに、鼓動は耳の奥で鋭く響き、不安が輪郭を持って迫る。

 

 巻尾がそっと問いかけた。

 

「引き返すっスか?」

 

 轟は首を振る。その目は暗闇の先をまっすぐに見据えていた。

 

「進むしかねえだろ」

 

 江藤は小さく笑いながら、三人の中で一番早く歩き出した。しかし同時に、この中で一番危ういのは、もしかしたら江藤なのではないか、そんな気配を胸の奥に感じた。

 静寂の中に、三人の足音だけが交錯する。瓦礫を踏む度に、微かな緊張が空気を震わせた。夜の闇は深く、彼らの存在だけが確かにそこにある――しかし、同時に不確かさも押し寄せてくる。

 

 ◇◇◇

 

 広場の闇が少しずつ濃くなった。砂塵を巻き上げる風が、瓦礫の隙間を吹き抜け、かすかな不協和音のように耳を刺激する。三人は互いに距離を保ちながら歩き続ける。歩幅は揃わず、それぞれが自分のリズムで進んでいるのが微妙な緊張を生む。

 

 突然、遠くの瓦礫の山の向こうで、何かが崩れる音がした。音は大きくはないが、空間に不意を突くように響き渡る。巻尾は立ち止まり、息を詰めて耳を澄ます。視線は瓦礫の向こうの闇に向けられ、心の奥で警戒が瞬時に高まった。

 

 轟は、ゆっくりと拳を握り直す。彼の胸の奥では、普段は押し殺される不安がわずかに波打つ。しかし表情にそれを出すことはない。彼はただ、行くべき道を見据え、任務を遂行するだけだという自覚がある。

 

 江藤は一歩前に出る。背筋を伸ばしながらも、その目には迷いがちらつく。笑みは消え、代わりに、未知への警戒と自分の立場の不安が混ざり合う微妙な影が見える。彼が前に進むその姿は、決意というよりも、むしろ衝動に近い動きだった。

 

 三人が並んだまま瓦礫を越えようとした瞬間、微かな声が風に混ざって届いた。子供の笑い声のようにも、人のつぶやきのようにも聞こえる。その声は幻のようで確かめようがなく、ただ胸の奥に小さなざわめきを残す。

 

 巻尾は立ち止まり、手を握りしめる。胸の奥で「守るべきもの」がざわめき、同時にそれを守りきれない可能性もちらつく。しかし、声を無視して進むしかない。轟もまた、迷いを胸に押し込み、足を前に出す。江藤は少し立ち止まった後、迷いを振り切るように歩き始める。

 

 三人は同じ方向を向いている――しかし視線の先に見えているものは、それぞれ違った景色だった。闇に包まれた広場で、彼らの影だけが長く伸び、風に揺れる瓦礫と一体になって揺らいでいる。

 

 遠くで瓦礫が再び崩れる音が響いた。その音に、三人の胸の奥で微かな決意と警戒が絡み合う。静かな夜の闇は、次の変化をひそかに待ち受けている――三人の進む先には、まだ誰も知らない選択と試練が待っているのだ。

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